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headbaner

Apr 9, 2010

Repeated feeling a mood, always new uneasiness







休日だが気分が良くない。カルチャークラブでも聴いてみたが理性に反する気分に襲われるばかりだ。調子が良い日が続けば自分が気分障害であることをあっという間に忘れる。だから再びそれに襲われると全く未知の症状に襲われているような錯覚に陥る。気分障害は患者にとって同じ症状が反復しても本人の中では常に新しい症状のように現れる。

例えば不安が起こったとしてもそれは既知の感情のように感じられないのだ。頭では症状だと分っているが気分としては今まで味わったことのない苦しさのように襲ってくる。僕のようにこれが症状だとどうにか理解できる患者はまだ良い方だ。殆どの人は絶えず理解できずに新しい気分に振り回されてしまう。

症状の原因の90%以上は恐らく疲れによるものだと僕は考えている。だが患者本人は症状の原因を出来事に求めやすい。出来事と疲れが複合的なのは確かだ。しかし症状がない状態ならば克服できる筈のものが症状の起因として認知されてしまうと、その克服できる筈の出来事に対して恐れを感じてしまう。

だから恒常的に症状が出ている渦中の人は自分が体験する多くの試練に対して全く無力であるように感じさせられる。症状さえなければ解決可能なものが見分けられないどころか、あらゆる試練の前に怯えて晒される状態になるのだ。その結果試練に対してどこまでも逃げるか、最悪の場合は死を考えるしかない。

具体的に示せば、僕は昨日までは老衰間際の飼い猫のことや今現在好意を持っている女性のことは、自分の理性で自分の感情を制御できる強さがあった。これは本来僕がそういった試練に対して苦しさを感じつつもそれを克服して前進できる解決能力があることを示している。

だが今日の僕は試練の出来事に対して、理性で考える以前に理性を超えた不可解な不安や苦痛が先にやってくる。その不安は僕に理性で考えることを邪魔させる。だから不安だけが残って不安に対抗するための思考が欠如するのだ。今の僕は本来の僕なら解決可能な事が、症状によって解決しにくい状態な訳だ。

僕がこのように症状によって歪められた認知をメタ認知で観察できるのは、僕の気分障害がここ数年頻度として少なくなったお陰である。だが症状の頻度が多い人たちだとメタ認知ができない。歪められた認知の元で自分が無力に思えて、症状に苦しみながら自己評価を下げるのだ。的確な自己像が全く見えない。

長く気分障害を患った人は病気によって本来の自己解決能力を育めずに年月を経る。また恒常的に症状に襲われると過去の成功体験など忘却されるか無価値なものとしか思えない。だから人生に対して無力な自分の人生像しか想像できないのだ。その上で更に反復的症状がまるで未知の症状のように襲ってくる。

初めて気分障害に罹った人には薬物治療は有効かもしれない。ただ病歴の長い人には患部を取り除けずに鎮痛剤をだらだら飲むようなものだ。僕のように病歴の過程で社会的にドロップアウトした者は病歴を長くしてしまう。そうなると薬物など病院が配給するただのエサである。薬物は問題の自己解決能力を作らない。

僕がなぜ病気に絶望させられずに生きているのか。一つは詩や映像製作という数少ない創造体験があるからである。二つ目に精神保健福祉士を目指していた頃に僕よりも不自由な人生を送りながらなお生きさせられる人々を見たからである。三つ目に僕より先に死んだ患者仲間が僕を生きさせようとするからだ。






病歴の長い気分障害を克服するには社会的体験の場を与えて課題を達成する体験を積み、自己解決能力を実感させ、少しずつ成功体験を重ねて自分の人生像を以前と違った視点で見る意思を養うしかない。その意味で職業訓練は有効だがそこまで辿り着ける人は未だ少ない。その原因は障害者の雇用の場や訓練施設の不足といった、政策的な問題だけではない。

症状を作らない為には疲れないことが大事だ。だがこれが非常に難しい。鬱状態がしばらく続いてそれが緩和された時の患者は多くの場合活発に動きたがるのだ。何故なら鬱状態で何も出来ずに失った時間を取り戻そうとする。そのために「頑張る」。だが動けなかった状態が大きいと動いてる時の反動も大きい。

動きたいのは患者の切なる意思なのだが動きすぎれば再びやってくる動けない反動もまた大きい。だから「頑張らない」ぐらいが患者にはちょうどいいのだ。患者が頑張り過ぎるのを防ぐためだ。加減を知るために必要なのが「頑張らない」という言葉の本当の意味なのだ。この点が社会的に浸透されていない。

香山リカなどが鬱病患者に対して、「頑張らせるべき鬱病患者も中には存在して、その人たちには『頑張れ』と言わなければならない」というような言説を展開している。香山に限ってはそれは悪意に満ちた偏見をばら撒いていると僕は切り捨てる。何故なら彼女は治療するためにそういっているのでは全くないからである。

香山リカを精神医学の識者だと考えている精神科医は少ないし、実際に彼女が臨床現場にいるかどうかは疑わしい。ただ余計な憶測は避けても何故香山がある種の鬱病患者に「攻撃的」なスタンスを取るのか、その理由の本当のところは分らない。ただ香山と同じような偏見を持った臨床医が存在して、治癒しない患者に薬物のエサを売ることしか技術がないという現状がこういう病気に不利益をもたらしているのは否めないのである。

最近出会ったパニック障害の女性がよく死にたいと言う。最近も自殺衝動で暴れて足を捻挫して杖をついている。なぜ僕は死にたいと思わなくなったのか考えていた。だがよく分からなかったのだが、今日鬱になって思い出した。鬱にならないと思い出せないということは、今の僕の場合、自殺念慮は観念ではなく体感なのだろう。

だが多くの場合、自分は生きててもしょうがないという消滅願望を訴える人間に何も説得できない。殆ど確信という観念になっているから。それを越えるような確信が必要だがそれは他人が与えられるものではない。他人の言葉で変れるならそれは確信ではないから。言葉をくれる他者自身への単なる依存で終わる。だから変えよう等と思ってはならない。

自殺念慮に他人が介入できると思っているうちは実はあまり相手のことを考えてはいない。自分が生きなければならない道徳感情を持っている以上に相手の中には自分が「死ななければならない」という確信的観念があるのだ。それをまず認めてあげなければならない。尊重するのではなくこちらがいったん相手の現在を納得するのだ。誰にでもあるありふれたこととしてではなく、その人固有のものとして。社会に溢れる相対的事実としてではなく、その人が現に直面する絶対的な悲哀の現実として。「誰でも死にたい時はある」というふうに哀しみを相対化されることは、誰にとっても耐え難いことであり、慰めにすらならない無益で一方的な言葉なのだ。

生きるための確信を自分が会得しなければ変れない。変るかどうかは誰も分らない。分らないから結論を先延ばししてゆくだけである。人は誰でも苦しい時は逃れたいから結論を求めすぎる。僕は苦しい時は早寝する。平凡な手段だ。でも一筋の光も見えない人にはそれが難しい。だがそこは頑張って寝るのだ。結論は常に不確定だが、絶えず更新されるからこそ生きる余地が残される。性急な結論は人を生き急がせて、死へ向かわせかねない。




戦争が起こったり飢餓に陥ることを考えれば、他に僕には怖いものなどない。
抽象的な実存とか未来に対する不安など僕の向かう敵ではない。
だがそれでも鬱の時は僕の心は変ってしまう。

しかし戦争とか飢餓のような僕の力ではどうにもならないもの以外に怖いものなどないという僕の本性は、病気に隠れても持続している。

病気によって僕の認知が崩れている今そのときでも、病気を引き剥がせば僕の本性は本当に変っていない筈なのだ。







music : Roger Eno - Fragile