Have an account?
headbaner

Dec 22, 2010

On December 18, depression, maybe









Listens to cheap Synth-Pop fleetingly,
look at the photograph of a diva while fearing gentleness,
get drunk on Chilean wine to forget it,
and I realize that I'm not inspirational anymore.
Carry a cat in my arms by whim,
after bite chocolate smells the sentimental cinnamon,
something is helplessly
something satisfies me,
but maybe I might be hopelessly sad man,
because I was born on such a cold day of December,
maybe,
till now,
from now on,
eternally,
without you,

miss you...










クラブで流してもくれないチープなシンセポップを儚げに聴きながら優しさに怯えて歌姫の写真を眺めチリのワインを忘れるために呑みこんで何のインスピレーションも既に無くおもむろに猫を抱っこして感傷的な匂いのするシナモン降りかかったチョコレートかじってから何かが救いようもなく何かがお腹いっぱいのようで12月のこんな寒い日に生まれたから僕は切ない人間なんだろうな永久にたぶんこれまでもこれからも君なしで生きるまま寂しいずっと君はいない。













Dec 21, 2010

It's only mood that I have










Who will color the world into a pessimistic color?

I'm going to remember an innocent smile while thinking of such a thing.
But where would be such such as innocent smile?
Surely I'm going to remember it after cannot look for the most important thing.

Such a night is over soon.
Today's thought disappears somewhere.

Tomorrow might be another day that might be different from today.
Will I notice the difference between another day and the today?

Say you, "it's only mood that I have".
And such moods, such a day, and such a monologue disappear soon.

From the ruin of what modernization was, I mutter,

"It's only moods toward your cherubic smile that I have."










誰が世界を悲観的な色彩に染め上げているのだろう?


そんなことを思いながら無邪気な笑顔を思い出している。
無邪気な笑顔なんてどこにあったのだろうと思い出しながら、
僕はきっと一番大事なことを探せなくなってから思い出すのだ。

...こんな夜ももうすぐ終わる。
今日の思いはどこかへ消える。

明日は今日とは違う別の一日だろう。
その別の一日と今日との違いに僕は気づくことが出来るだろうか?



カタ, 僕にあるのはただ「気分」だけだ。

そしてこんな気分も、こんな一日も、こんな独白も、もうすぐ、消える。




近代化の成れの果てから、僕は呟く。


「僕にあるのは君への気分だけだ」















The ruin of modern times







My daily life is my addiction.


Because my mind is dead in my daily life, I can escape from fatal despair.

Instead of not giving me human feelings, the daily life of the momentum saves me from the fatal despair.

Because I don't want to despair, I depend on repetition of daily life insensible.



I do not think.
I do not look.
I do not notice.
I do not be attached to.
I do not really love.

I live in the ruin of modern times.



If you love me, look for me.
I will escape from you because I really love you.









こんな夜は気分が落ちるばかりだ。
プラスマイナス0に辿り着けない。

明け方に向かって、なだらかな下降線を辿り、
ありきたりな希死念慮へ着地する。

ありふれたそんなカタストロフ。

いずれ君の優しさを乞うだろう。

最近はよく思い出すけど、
きっと冬の寒さのせいだ。
誰のこともきっとどうだっていいんだろう。

だからとりあえず君を僕の感傷が刹那に選ぶ。

日常へのアディクションなんて疲れた。


愛してるなら、探してくれ。

きっと逃げ出すから。だって本当に愛してる。










Oct 15, 2010

After daytime flash news






People make a wild excitement for life and death of 33 men of Chilean.
How innocent life will be wasted in Gaza and Afghanistan, but they never mind it.
The news to fan an excessive meaning is propaganda to forget a meaningless massacre.



 みんな、世界のどこかで、33人の男たちの救出劇に恐ろしく無我夢中で見入っている。まるで世界が終わるかどうかの瀬戸際に自分たちがいるかのように。

 みんな、自分の国や世界のどこかで、無慈悲に殺されたり飢え死にしたりする誰かのことにはいつものように恐ろしく無関心だ。ガザやアフガン、スラムや独居住まいでの日常的な一分一秒の一人の死は、チリの33人への偶像化によって見事に僕らは忘れることが出来る。

 ある命が過剰に意味づけされ他の命が無意味に抹殺される、そんな真昼のニュース速報。









My meaningless suffering separates me and people nonsensically.

All openings were openings to the end again.

I turn my back once again.

From here,
From that,
From it,
From them.



 僕のもったいぶった役立たずな苦悩は、当然無意味であるがゆえに、僕と世界の間を引き裂く。

 全ての始まりが終わりの始まりへとカウントダウンしてゆく。

 僕はもう一度全てに背を向ける。

   ここからも
         あちらからも
                彼らからも

                       君からも。









It may catastrophe.

But if it's catastrophe, it's still worth ending it.



 それ悲劇かもしれない。

 だがもし悲劇なら、まだ価値が残っている。

       無意味ではなく、終わるための価値が。









music : John Cage - In a Landscape





Sep 27, 2010

Chinese bluff and American profit






 【ワシントン時事】米保守系シンクタンク、ヘリテージ財団のクリングナー上級研究員は24日、日本が尖閣諸島沖で起きた漁船衝突事件で逮捕した中国人船長を釈放したことについて、「日本の降伏」と厳しく批判した。
 同研究員は「中国の圧力に対する日本の降伏は日本、米国、地域に否定的な影響を及ぼす」と指摘。中国人船長釈放という「日本が送ったシグナルは、アジアの平和と安定の将来にとって危険なものだ」と述べた。
 また、米政府が今回の事件を受け、日米同盟による強力な支援を表明したことを評価。ただ、日本が中国の圧力に屈服したことで、中国は挑発行為をさらに強 める恐れがあり、米国が地域・世界の脅威に対処するため日韓両国との同盟強化を図るのがより困難になるとの見方を示した。
 一方、米外交評議会のシーラ・スミス上級研究員は、中国政府が対応をエスカレートさせたことが、近隣諸国に不安をもたらしたと中国側の対応を批判。これに対し「菅内閣は事件に率直かつ冷静に対処したことで高い評価に値する」と語った。 



 政治のことはよく分からないが私の印象。

 日本は当て逃げされた暴走漁船の船長の不起訴・釈放に追い込まれ、挙句の果てに謝罪・賠償まで迫られるという19世紀の列強進出時代のごとき屈辱的な立場に追い込まれている。
 困った挙句にアメリカに泣きついて「尖閣は日米安保の対象」と宗主国からの「お言葉」を頂かねばならなくなったわけだ。

 そのアメリカと中国は先日、サマーズ国家経済会議(NEC)委員長が北京の人民大会堂で胡錦濤国家主席と会談して、台湾武器供与以来の冷えた関係から歩み寄って軍事交流を再開しようとしているのだという。
 アメリカは尖閣問題を他人事のように論評しながら、日中の対立をよそに、米中は日本の頭越しに「尖閣」を抜きにした外交を展開しているのだ。


 結局、一連の流れを俯瞰してみると、アメリカが日中対立の間で「漁夫の利」を得ているように感じるのは私だけだろうか。


 今回の事件で多くの日本人が感じた恥辱と悔しさは、恐らくは北朝鮮の拉致問題が表面化したとき、それ以上に値するものであったのではないか。日頃ナショナリズムとは無縁に暮らしている人々の眠っていた愛国心にも大きく火をつけたに違いない。

 だが我が国の政府は独自の外交をしようとしても中国相手に負けっぱなしであって、日本は結局日米同盟に頼らざるを得ない。
 言い換えればアメリカという「宗主国」にすがらなければ日本は中国相手に何も出来ないのではないか?
 このアメリカに対する諦念のような見方は多くの国民の中でコンセンサスとなっているように思う。

 つまり、日米同盟で守ってもらう代わりに、今まで通りアメリカの属国として言いなりになるしかないのではないかという結論が暗黙のうちに引き出されるのではないかと思う。


 ここで重要な局面を迎えるのは、沖縄の普天間基地移設問題である。


 鳩山政権を倒閣に追い込み、菅政権の参院選惨敗をもたらした民意の底には、基地問題に関して裏切られ切り捨てられた沖縄への本土の人々の潜在的なシンパシーが少なからずあったのではないかと私は思う。
 そうした沖縄への支援に傾きかけている潜在的な民意を後ろ盾にするかのように、辺野古移設に反対する名護市市議選挙が行われ移設反対派の圧倒的勝利があり、11月知事選に向けて、これまで立ち位置をはっきりさせてこなかった現職・仲井真知事も基地の「県外移設」を公約に盛り込む事態が導かれた。

 その流れの中で起こった尖閣漁船事件は、米軍海兵隊を追い出したい沖縄県民からすればまさに最悪のタイミングで迎えた災厄とも言えるのではないか。

 なぜなら、今回の尖閣事件で屈辱的外交を見せつけられナショナリズムを焚きつけられた多くの本土日本人は、日米同盟への更なる依存を現状として認めざるを得なくなるわけで、その結果、尖閣の直近に位置する軍事拠点としての沖縄の役割を現状追随的に認識させられるに違いないからである。
 つまり、沖縄の基地負担に少なからず同情を寄せつつあった世論の傾きが一気に「日米同盟への更なる依存=在沖縄米軍の要求への無条件の妥協」へとシフトが逆行する可能性がある。沖縄の呻きにようやく耳を傾けつつあった本土の民意を、民主政権やアメリカの言うままに元へと覆し、主権外交なき日本の為にまたしても沖縄を捨石へ追い込みかねないわけだからだ。


 焚きつけられたナショナリズムが何者かの見えないフリーハンドによって無自覚に我々の選択を消し去っていく。


 なにより私がアメリカをしたたかだと思うのは、
 「中国の圧力に対する日本の降伏は日本、米国、地域に否定的な影響を及ぼす」とか自分たちもが利害の当事者に含まれるかのように日本に責任を課しておきながら、
 腹の底では、
 「日米同盟についてちょこっと日本にエサを撒いてやれば、沖縄の基地問題も俺たちの言いなりに出来る」
てなふうに計算して発言しているようなアメリカの黒い腹芸が透けて見えてくるところにある。
 


 基地問題という懸案を合わせ鏡として今回の尖閣事件を映し出してみれば、これが中国の単なる19世紀の列強のような古めかしい業腹っぷりに留まらず、背景に多くの意図的な青写真が巧妙に織り込まれているように私は思えてならない。


 今回の漁船当て逃げ事件は、そういった何者かの意思を踏まえた上での、実は作為的に行われた謀略として疑ってみてもよいのではないか。 


 謀略とは勘繰りすぎだとしてみても、アメリカと中国が互いの利益を見積もった上で事後的に裏で手を結んでいるのかも知れないと私が疑うとすると、それは果たして飛躍しすぎなのだろうか。







Sep 13, 2010

Insignificant matter about "a right" and "the human rights"





 いろいろとツッコミどころの多いブログ記事を見つけて、あれこれといろいろ考えたのだが、私の思ったことをごく端的な私的メモのつもりで記しておく。



共に幸せになる道を探そう」(人権や権利という対立からの自由)- 森へ行こう(心とからだと子育てと)



 政治的カテゴリの概念である民主主義を、別次元のカテゴリである親子の関係や自然と人間との関係性に置き換えて話を進めること自体がナンセンス。パレスチナ問題を嫁姑の喧嘩話に喩えるような愚劣さと同じで、問題の複雑さを矮小化して情報量を意図的に減らして無理やり我田引水しているに過ぎない。

 人権とか福祉とは人間が自然発生的に社会規範を整えたり他者を思いやることが出来るとは看做さない立場から生まれたものだ。
 言い換えれば何の教育も受けずに完全に放任されて育っても自然と人助けが出来るような人間ばかりなら人権という概念は必要ない。
人権が語れるのは人権が保障されてるからだ。

 権利とは対立的な思考に基づくものでなく自立的思考から考えるべきだ。
 誰しも自分の社会的行為や人生に対する自己決定を主体的に行う自由意志を有している。他者に依存してしまうことなく自分にとって最も最善の道を自分で考えて自分の意志で決定し行使する。
 その一連の自立的過程こそが権利である。

 人権や権利を主張する人達に対し「寂しい人」と断じる見下すのは何故か。
 自分の気持ちや存在を受け入れてもらっていないと感じることは寂しいことだが、それは当人に自分の人権や権利が認めてられているという充足感がないからではないか。
 つまり自分の寂しさを決して受容していない卑屈さの現れである。権利を正統的手段で主張しようとする人々に対する屈折した羨望、そのような真似をできない自らの非力さに関する劣等感情こそが、このような妬みに満ちた誹謗しか吐けなくさせるのだ。

 DV やACに限定して言うなら“with”ではなくむしろ“own”の志向が大事だと思う。
 他者依存や共依存傾向こそがこれらの問題解決を遠ざけるからだ。
 自分の意思や権利を大事にして主張できなければ相手を同じく対等な権利を持った自立的他者として尊重できない。対等な意識こそが関係を安定させるのだ。

 そもそも「幸せ」と「権利」を同枠で論じることは破綻する。
 過剰であろうとも権利を主張することに自分が充足できるなら相手からどう映ろうとも幸せなのだ。
 換言すると充足している相手を貶めることにしか自分が躍起になれないならそんな負の感情は不快という不幸せしかもたらさないかも知れない。

 子育てというカテゴリに限って言うならば、「共に幸せになる道」と論じるなら「子どもの視点」を持つということが「子どもの権利」を我が子に促すことに他ならないことを悟るべきだ。
 もっとも僕は「共に幸せになる道」は「共に自立する過程」の結果として対等な相手を思いやれる自分の充足感だと思う。

 僕は子育てはしたことないから何か言う資格はないかもしれない。 
 ただ僕は自分の親に対して、親であると同時に自分とは異なる意思を持つ当たり前の他者であること、親の立場という権利を有した独立した人格だと看做せるようになって、初めて親と和解できた。それが老いてゆく親への思いやりへと繋がった。
 親子の関係は子育てのみで終了するわけではない。親の老いを子がどのように迎えるかといった事柄にまでその課題は存続するのである。



 最後に。

 民主主義が弱者を生むのではない。
 「人権」とか「権利」という考え方に対立的構図を見いだす者の、民主主義とは相容れない排他的な不寛容こそが弱者を作るのだ。



 

『「人権」とか「権利」という概念は、民主主義を守るためのものであって、人を守るために生まれたものではありません』


 

『それは子どもには「人権」や「権利」という概念がないからだけではなく、子どもが求めているものが「人権」や「権利」ではないからです』




 この言葉をじっくり注目して欲しい。
 「人権」や「権利」の言葉にこのようなファッショに似た反動的な悪罵をつらつら書けるのは、もはや異論の他者を「対立的」な存在として抹殺したい者の悪意の本音が十二分に暴かれている。



 それはもはや誰をも幸せになどしない、恐怖社会すら望む陰湿なルサンチマンに他ならない。





Sep 8, 2010

"What’s happening?" commands me to fill the blanks.






Any idea can be made a word. But I cannot make words without a idea.
I stare at the blank and try to write some words. But the words do not appear though nothing thinks.
We use the words for a thought. But the words are means, and not a purpose.

When I look at Twitter, I feel certain an obsession. Though there is not the request from my thought, I must write in words.
Why is it Twitter?
The reason is because Twitter commands me to report a progress without result in every time.

However, we don't have the dramatic life every day so as to need that we often report something.
We don't live in the moment when words come out steadily.
I don't feel tiredness in writing the idea of something.
But it's mere painful for me to spend all my time as I always consider it to produce something reported to others.

Our words never created for an advertisement to link.





 いかなる思考も言葉にすることはできる。だが思考もなく言葉を創ることは出来ない。
 私は空白を見つめて何か言葉を書こうとする。だが何も考えていないのに言葉は現れない。
 我々は思考を目的として言葉を使う。だが言葉は手段であって目的ではない。

 私がTwitterを眺める時、私はある種の強迫性を感じる。私の思考の要請もないのに私は言葉を書き込まなければならない強迫性である。
 なぜそれがTwitterなのか?
 Twitterがあらゆる時間において結果がなくても経過を報告することを私に命ずるからである。

 しかし我々は報告することを必要とするほど劇的な人生が毎日起こっているわけではない。言葉がどんどん出てくるような瞬間を生きていない。
 わたしは何か考えたことを書くことに疲れを感じることはない。
 しかし誰かにに報告するネタを作り出すために常に意識して自分の全時間を過ごすことは単なる苦痛でしかない。

 われわれの言葉は連動する広告のために生まれるのではない。





Aug 24, 2010

When the LCD is shut down





Morning, from Los Angeles, she is an overseas student from the developing country and wealthy person's daughter, ask you.


 朝、ロサンゼルスに留学している発展途上国の富裕層出身の彼女が尋ねた。



"Which do you want? friend? or lover?"
"No, ally"



 「あなた彼女が欲しいの? それとも友達?」
 「違う、味方だ」




You answer, You are a neet that relies on old parents' pensions, in Tokyo, ungraceful tonight.


 還暦過ぎた親の年金暮らしで一級在宅士の不様な俺が答える、東京の夜。



Skype is cut.


 スカイプを切断する。



It have just come at last, time to rush into depression all alone.
You can love world nobody soon.
It's isolated.
Feelings like lynching attack you.
Switch off the PC soon, you'll barricade oneself in the bed, and you'll bear.



 独りで鬱に入る時間がやってきた。
 もうすぐ世界の誰もが愛せなくなる。
 完璧な孤立。
 袋叩きの気分が襲ってくる。
 そのうちパソコンの電源を切れば、俺は布団にもぐり横ばいになって耐えるだろう。






You delete names in succession,
Names that has never met, found on net.
Swallowing Levoprome a lot,
You hear an ominous whisper on iTune.



 ネットで知り合った会ったこともない奴らの名前、
 どんどん削除していく。
 レボトミン、少し多めに呑みこんで、
 iTuneから胸の悪くなる囁きが聞こえる。





"What do you think I'd see if I could walk away from me?"


 「何が見えると思う? もし自分から遠ざかることが出来れば」



You become silent once again,
To pass completely from her,
Even though you've never met her.



 俺はもう一度沈黙する。
 彼女からすっかり通過してしまうために。
 俺は彼女になんか一度も会ったことがないのに。




You've just decided with all narcism.

"Happiness is no duty after all"



 ナルシスティックに浸って、決意する。

 「幸せになろうなんてのはやめた」




The LCD is shut, and your day where you should live have been over now.


 液晶画面が閉じて、ちょうど今、俺の生きるべき一日が終わったところ。






music : Velvet Underground - Candy says



Aug 20, 2010

Ideology of Ground zero





The act of sympathizing belongs to the minority.
The ground zero should have never existed in the world if the majority was merciful.



 しょせん人を思いやるって行為はマイノリティに属しているのだ。
 マジョリティが慈悲深ければグラウンドゼロなんて存在しないに違いない。




I read a certain female journalist's column with the newspaper.
She lived in the United States when it was a junior high school student, and went to a local junior high school.
The teacher questioned students one day.
"Do you think that what method is necessary to solve the Japan and United States trade frictions?"
Then a certain white classmate said in fun.
"It's good for us to drop the atomic bomb to Japan again."
All students in the class had a hearty laugh his remark.
The white young man might have only said a mere joke.
But she didn't laugh. She raged for humiliation without a word.
Her grandparents were bombed during war in Hiroshima.



 新聞である一人の女性記者のコラムを読む。
 彼女は中学生の時アメリカに住んでいて、現地の中学校に通っていた。
 ある日、教師が生徒たちに質問した。
 「日本とアメリカの貿易摩擦はどうすれば解決すると思う?」
 すると白人のクラスメートがおどけて言ったそうだ。
 「もう一度日本に原爆を落とせばいいよ」
 クラス中の生徒がみな大笑いした。
 それは単なるジョークに過ぎなかったのかもしれなかった。
 しかし日本人である彼女は笑わなかった。黙ったまま、怒りに震えていたという。
 彼女の祖父母は戦争中に広島で被爆していたのである。




The American may blame a Japanese about the surprise attack of Pearl Harbor adversely if a Japanese protests an American by atomic bombing in World War II.
But do many Americans know that there is a submarine called USS Bowfin in the museum of Pearl Harbor?
The submarine attacked a torpedo to the evacuation ship which carried a private citizen on board in closing period of World War II, and killed 1,418 people. The most of the dead people were children.
Such a submarine is praised as National Historic Landmark now.
More nonresistant citizens in Hiroshima and Nagasaki and died 65 years ago was burnt to death.



 もし我々が第二次大戦中の原爆投下についてアメリカ人を責めたところで、彼らは逆に真珠湾のだまし討ちの話を始めるだろう。
 だが真珠湾のミュージアムに置かれたボーフィンという潜水艦が犯した過去を知る者は少ない。
 大戦末期に疎開船に魚雷攻撃を仕掛け、1418名を殺した。沖縄戦の悲劇と共に語られる対馬丸事件である。
 対馬丸を撃沈したボーフィンは現在「真珠湾攻撃の復讐者」として称えられ、国定歴史建造物に指定されている。
 65年前の広島と長崎ではそれよりもっと多くの無抵抗の市民が閃光と共に蒸発して死んだ。






65 years ago, two big cities were exterminated by atom bomb in only less than several minutes.
It cannot compare with the collapse of only two buildings.
There is a big difference in Ground zero of Hiroshima and Nagasaki and it of N.Y.
They who got furiously angry with tragedy for only two buildings invade the foreign country and continue massacring it nearly 10 years.
I have a hearty laugh for their weak self-satisfied victim feelings in joke.



 65年前、二つの大都市が僅か数分足らずで原爆で消えた。
 たかがビルが二つ倒壊したのとは訳が違う。
 広島と長崎に比べればニューヨークにあるのはグラウンドゼロ(爆心地)ではない。先住民を追い立てた拠点の成れの果てである。
 ビル二つ分の悲劇に怒り狂った彼らは海を隔てた他国民を侵し始め、10年近く殺戮し続けている。
 わたしはその脆弱で独りよがりな被害者感情にジョークを込めて爆笑しよう。




"It's good for us to drop the atomic bomb to Japan again." I may be the just same as the white young man.
No, surely I'm just same as him,
I must be the same as him.
The reason is because there was "ground zero" in Nanjing 73 years ago.
For a victim of Nanjing Massacre, we Japanese is the pack of lies which put on weak self-satisfied victim feelings.



 「もう一度日本に原爆を落とせばいい」。その白人の青年と私はちょうど同じ程度かもしれない。
 いや、同じなのだ。
 同じでなければならないのだ。
 なぜなら73年前の南京にも「グラウンドゼロ」はあったからだ。
 南京のことを思うとき、わたしはきっと脆弱で独りよがりな被害者を気取った嘘の塊に違いないのだ。




There is the ground zero where many people died in the world various places.
All the martyrs who died may be minority.
Because they could leave nothing in the world, and was merely crossed out to the outside of the history.
Only stupid self-righteous majority multiplies in the world after a martyr was killed.



 グラウンドゼロが存在する。多くの世界に、多くの人間が絶命したその果てで。
 死んでいった受難者はみなマイノリティかもしれない。
 彼らは何もこの世に残せず、ただ歴史から抹殺されていったのだから。
 受難者が消された後に、愚かで独善的なマジョリティだけが世界を覆いつくす。




In ground zero, the prayer to the victim is deleted.
there is only an ideology of the retaliation.



 グラウンドゼロでは犠牲者の祈りはかき消される。
 あるのは報復のイデオロギーだけである。








music : Flash & The Pan - Walking in the Rain




Aug 17, 2010

Simple doubt to the Bhutanese





Happiness is subjective. And, it is a result and not a purpose.

GDP is only an expedient standard. However, GNH is an ideology.
Is "Freedom to choose misfortune" admitted for the ideology?




ブータンという国は前国王が国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念を提唱していて、独自の緩やかな近代化政策や環境保護、伝統文化保持で知られる国で、ある種の人々からは理想的な国家像として語られることが多い。僕も10年程前にこの国に旅行したし、Facebookでブータン人の友達もいて話したりすることもある。

そのブータンに関して、最近見つけたのがこのような記事だ。

クーリエ連載:ブータンの民主主義」(2007/6)

あまりにもブータンは理想的な国として喧伝されるので、実際にはこういった現実があるというのは別段不思議でもないし、おそらく事実だろうと思う。

国民総幸福量だとか、我が国の首相の「最小不幸社会」だとか、幸福や不幸にまつわる事柄に関して僕が思うのは、戦争や飢餓といった絶対的な極限を別にして、幸福や不幸という極めて個人的主観に属する価値観を、国家が関与するようなことは、斬新なように見えて実はとても後退化した手法だと思うのだ。

幸福は国家や集団が規定するものではなく、個人が追求するものだ。なぜなら幸福は必ず幾許かの不幸を前提としていて、幸福感とは個人的な事情・理由によって投影されるものであるからだ。そして個人の幸福感という感情に国家が関与することは許されないことだ。、どのような価値であれ、個人の感情に国家という強制力を伴う代物が足を踏み入れるのはファシズムと手法を同じくしているからである。

国民の幸福度を高めることを国是とするのは、見方を変えれば為政者の執政に予め正統性を保証しているだけのことなのである。しかし政治は国民が幸福である可能性を整備するのであって、国民の幸福それ自体を目指すことは不可能なのだ。個人が幸福を求めるための生存を保証するのは近代的な国家であるが、幸福という精神性までも保証することはできない。
国家が精神性になにがしかの接近を行うようであれば、それは北朝鮮の主体思想や中世の宗教的国家像といった異形の姿と近づきかねず、危険な行為と言わざるを得ない。

幸福には幾許かの不幸が前提となると僕は言ったが、国家がやるべきことはその幾許かの不幸に国家が関与しないようにせいぜい努力するほどのことなのだ。幸福を求めるには個人が生存していることが必要だから、社会権というものがある。
国民総生産は社会権の充実をある一面においてだけ計量出来るかもしれない尺度にすぎない。 だが国民総幸福量というのは根拠のない指標であり、根拠がなければイデオロギーでしかなく、社会主義国の国家が持つ独善性と大差なきものとなりかねないのではと思う。

ブータンが実際にどのような国であるかは問題ではない。だが、国民総幸福量という美名に乗せられずに正確に物事を考えようと努めれば、そのような疑問が浮かび上がるというだけの話だ。

少しも幸福の前提にならない幾許かの不幸があるとすれば、それは幸福とは不幸が全く関与しない絶対的な価値だと錯覚してしまうことである。

不幸が感じられないところには幸福も存在しない。なぜなら痛みを知らない人間は痛みを逃れることを初めから考えられないからである。そして痛みを知らない人間だらけの場所には人々に共感作用というものもない。

そもそも幸福は幸福を目的とすることから不幸が始まっている。そのような不幸は何の意味もない。だが幸福とは一見何の幸福も期待し得ないような苦悩や欠乏を通過した後、直感において瞬間に生まれる「意図せぬ結果」である。

それを理解できないところでは、ブータンに対するある人たちのの如何わしいユートピア幻想は如何わしく続くのだろう。




Aug 2, 2010

Facebook is the list for the people want to be managed.








When a web site was able to be the center of the Internet, all the web masters were creator.
They knocked down the oligopoly structure of the freedom of speech by anonymous power, and it was the witness of things from a unit at the minimum.


 ウェブサイトがインターネットの中心であった時、すべてのサイトマスターは表現者であった。
 彼らは匿名性を用いて表現の自由の既存メディアによる寡占構造を打破する可能性を有し、最小単位の表現者足り得た。



The anonymity turns into a real name, and, at the present when SNS expelled a web site, a personal extremely realistic figure comes to be reflected in the net.
As for the people, realistic one's reflection becomes the capital in a net. The people can attract attention only by exposing oneself to light.
Ability and the peculiar personality are not always necessary to attract attention in SNS.
The people can become a special person with anyone just to explain a figure and an occupation, a thing such as the income.
In brief, if it is a rich person or a beautiful woman, they take the envy of another person in SNS and can increase friends.
In other words, even one of the guys without the element of strength takes attention in particular only by status of the reality world being substantial.
As for the person who is endowed with a figure and wealth, it is got popularity even if stupid in SNS.
There extends the reality for the winners of the real world to show off vested interest.


 匿名性から実名へ、そしてウェブサイトがSNSに取って代わると、ネットは極めて現実的な個人像を投影する場となった。
 人々にとって現実的実像はネットでの資本となった。現実的な自分を簡単に露出することで注目を集めることが出来るようになった。
 才能や特異な個性はSNSにおいて注目を集めるために必ずしも必要ではなくなった。
 容姿や職業を収入といったものを晒すことで誰でも特別な人間になれる。
 簡単に言えば金持ちや美人であれば、他者の羨望を集めることが出来るし友人を増やすことも出来る。
 言い換えると、別に人を惹きつける強烈な要素がその人になくても現実世界で特別なステイタスがあれば注目されるわけだ。
 容姿や収入に恵まれていればバカで凡庸でもSNSにおいて人気者になれる。
 要するに現実世界の勝ち組が勝ち組たることを最大限に触れ回る現実の延長なのだ。



SNS is a list of people and cannot become the place of speech and the expression.
It is only the family register that attracted the faces of people on a global scale.
It is an attribute not their personality that people exchange in SNS.


 SNSは単なる人間のリストであって表現や言論の場にはなり得ない。
 人々の顔を羅列する世界規模の戸籍のようなものでしかない。
 SNSで人々は個性ではなく属性でやり取りをするのだ。



They are consumers of the passiveness in the place held the list of people.
The list has no power. It is a list that it is used by a thing with the power.


 SNSという人間の羅列リストにおいては従属的な消費者しか存在しない。
 そのようなリストには何の意味もなく、リストを利用しようとする力に掌握されるだけの代物である。


The people who express talent, and insist on speech go to "YouTube" and "deviantART".
The exchanges of people there are personality not an attribute.
It is a work and quality of the speech not status to become the money that people change.


 才能を表現したり言論を行使しようとする者はYouTubeやdeviantARTへと向かう。
 そこでは人々は属性ではなく個性によってやり取りをする。
 人々の交換貨幣となるのはステイタスではなく作品や言論の質なのだ。


A work and quality of the speech go over the social hierarchy.
The interchange of a true human soul is born in there.
It becomes the public power.
And it is only such the public power that can be opposed with potential malicious power holding the world by a list.


 作品や表現の質は社会的階層を越える。
 そこにおいて真の人間的な精神の交流が生まれる。
 それは一つの公共的なパワーとなる。
 そしてそのような公共的なパワーこそがリストによって世界を掌握しようとする潜在的な悪意の力に対抗しうるのだ。


Facebook is the list for the people who want to be managed give to own information.

 Facebookは管理されたがる人々が自分の情報を献上するためのリストである。


The anonymity is exchangeable in the virtual world, but the personal personality is unique and peerless in real world.
However, the personal irreplaceable personality is treated like a temporary handle in SNS lightly.
It is only realistic world status and information about the hierarchy to be necessary in there.
The people become exchangeable existence. Therefore the people are not joint. They are only arranged in a list, and are deleted.


 仮想世界において匿名性は交換可能だが、個人的なパーソナリティは現実世界において唯一無二である。
 だがSNSにおいては個人のかけがえのないパーソナリティは便宜的なハンドルネームのように軽く扱われるものとなる
 そこでは現実世界のステイタスや階層に関する情報だけが必要とされる。
 人々は交換可能な存在であり、だから人々は連帯しない。リストの中で名前が並べられたり削除されるだけの事物となる。


Uniform standard is going to rule the world by single value in list.
Consideration to the individual and the respect are lost by the uniform globalization.

 リストの中の単一の価値によって均一的なスタンダードが世界を牛耳る。
 均一的グローバリゼーションにおいては個人に対する思慮や尊敬は失われる


When single value wraps up the world, all dependent consumers come to respect search engine than the personal human nature and life.

 単一の価値が世界を覆うとき、全ての従属的な消費者は個人の人間性や生命よりも一個の検索エンジンを尊ぶようになるだろう。


Something, it are fascio.

 つまり、それはファシズムなのである。






music : Ccrta - Amalirri


Jul 30, 2010

Rebellion of squirt precariat





She's
          paralyzed    under

                
luminescence   of    love,


                   and

                       betray

            
temptation    of      alkaloid,


She'll




             bite in


               
beaver      of

                    the
slut friend

                                             on    a bed    of

                                            
fundamentalism,


                     To give



                       birth           to
                    
                          
grace
                                          of


                                  
suiside anomique.




愛の
ルミネセンスのもとで麻痺し、

アルカノイドの誘惑に背いた彼女は、

ファンダメンタリズムのベッドの上で

ヤリマン友達の

マンカスに噛み付くだろう。

自殺アノミー


の恩寵を産み落とすために。


                        



               She's            part-time skeezer


 to ride astride                              
                                                         
smart bomb of lame duck .




        We                  are



              
mild thing       of underdog

were



            produced by           
roar of laughter  

financial engineering.








                   She was thrown in to here.



                              We turn our back on all.




彼女は

廃物誘導爆弾の上で

ピストン運動する

非定期雇用
肉便器

われわれは

爆笑金融工学が

生み出した

負け組
チンカス野郎。



彼女はここへ投げ込まれた。


我々は全てに背を向ける。











        But she        just          have     got    her        hands on,

 




     a chance


               that
ends the world



                                that made her
idiot


                                                of  
preestablished harmony.
 



だが彼女は今、掴んだ、

   
彼女を

        
予定調和


             
白痴にした 世界  




               
      終わらせる



                きっかけを。











music : Ccrta - swich man




Jul 27, 2010

Apocalypse in Post-Web 2.0 age






The face that the little girl of the Southern Hemisphere smiles is 100 kbytes.
The sperm of guys of paedophilia of the Northern Hemisphere are spread 1 liter.


A cunning tone concluded to be briefly is 10 kbytes.
Ten lines of innocent names crossed out by Mind control make a list.



南半球の少女が微笑む100KBのファイル。
北半球の幼児性愛者の精子が1リットル撒き散らされる。


短い狡猾な断定口調による結論が10KB。
思考停止によって抹殺される無辜の名前が10列リストアップされる。






News feeds of somebody having 1,000 friends is updated steadily.
Somebody of 1,000 friends that a news feed is not updated cuts a wrist in a bathtub quietly.
But 1,000 starvers who be hardly news have no feeds.



1000人の友人を持った誰かの News feed が着々と更新されている。
更新されない1000人のうちの誰かがでひっそりバスタブで手首を切る。
Newsにならない1000人の餓死者は feed すらない。



A supposition of less than 100 characters drove 1,000 day-traders mad yesterday.
10,000 unemployed people overflow at intervals of one hour, and a riot begins today.
Because the mother country may die out at a limit all day long, I send Direct Messages to an account of uncertain life and death and will say good-bye tomorrow.



100文字足らずの憶測が1000人のデイトレーダーを発狂させた昨日。
今日は1時間刻みで1万人の失業者を生み暴動が始まる。
明日一日で祖国が消滅するかもしれない僕は生死不明のアカウントにダイレクトメッセージで別れを言う。






His app shares her nightmare.
Precariats on the road subscribes a load of vanity by verified account.



彼のアプリには彼女の悪夢がシェアされる。
在宅ネット監視員には認証済みアカウントのリア充が伝えられる。



We live on the face of a document type, and book onself to accelerated catastrophe.


プログラミング言語の上で僕らは加速された破滅を予約する。


Our isolation follows Big Bot, Our mutual assured destruction is finished.


僕らの孤立は偉大なボットに導かれ、僕らの相互確証破壊が終わる。









music : Ccrta - Packila



Jul 21, 2010

Capital glance




"I can easily endure the contempt of the monied crowd easily. But one eyes of the underprivileged person pierce the bottom of my heart deeply." ― Andre Gide



I don't demand the status socially approved.

What I demand is freedom from social approval.






金持ち連中の軽蔑には容易に耐えられる。 だが一人の恵まれない人の視線は、私の心の底に深く突き刺さってくる。
  ― アンドレ・ジイド



私が求めるのは社会的に承認されたステータスではない。

社会的承認からの自身の自由だ。



Jul 20, 2010

Heaven can wait




Charlotte Gainsbourg "Heaven Can Wait"



I think Charlotte Gainsbourg not to be a beautiful woman.
But she is attractive.
I feel calmness of the motherhood to her.

There are not many women whom a song of Beck suits.
Charlotte Gainsbourg is the rare woman who can express the song which Beck made.





 Beckがプロデュースしたシャルロット・ゲンズブールのアルバム "IRM"をよく聴いているのだが、作風が "Modern Guilt" に音の作りから歌詞の雰囲気までよく似ている。

 わたしは彼女のファンではなかったのだが、このアルバムとPVのイメージにはやられた。Beckの織り成す警告じみた危機感とも言うべき諧謔的な表現に対し、シャルロットの存在感が全く違和感がなく、優しく癒される心地すら感じる。

 シャルロットはジェーン・バーキンほどセクシーでもないし、歌も上手くない。だが母親との比較において彼女にはある種の近寄りがたさのようなものがなく、凡庸な我々との隔たりをあまり感じない親和感があるような気がする。

 Beckの歌を歌っても奇異な感じがせず、フレンチポップ特有のウィスパーボイスのような気高さが似合わないところが、シャルロットの稀有な「凡庸さ」であるように思える。



Jun 11, 2010

You have a man to remember yours favorite phrase





 僕は現在の自分の暮らしが不幸せだとも幸福だとも思ったことはない。

 ただ、報われ難い人生を歩いているとは思うこともある。


 就労訓練を受けていて事実上無職であるわけで、結婚もしていないし勿論子供もいない。配偶者や子供が欲しいかどうかは別として、そういう機会が経済的に与えられていないわけだ。
 それらの社会的ハンディキャップは、僕が精神疾患を長年病んでいることに全ての原因が由来している。

 僕がもしそれなりの経済的余裕があるなら、相手に恵まれれば結婚することもあるかもしれない。それに仮に僕が女性であるなら、相手に恵まれれば自立した自活能力がなくても、相手の男性の経済力に依存して専業主婦にでもなって、結婚して子供が出来れば、障害者の社会的ハンディキャップから一気に脱出することも可能かもしれない。実際にそういうメンヘラ友達を僕は多く見てきた。ただしこのような過程を省いた推論はナンセンスだとも思う。

 だが僕の長年の友達の中で、僕が未だ変らず社会的ハンディキャップを背負っていることを知り得ながら、自分が結婚したこととか子供が出来たことを報告してくる人がたまにいるのだが、そういう時は結構傷つく。
 
 しかしそこで僕が考える。もし僕が正反対の立場、つまり結婚とか子供とか運良く普通の平凡な幸福を得られる立場であったなら、そういう幸福を手に入れられない条件化に縛られているハンディを背負った人が親友の中にいるとすると、やはり僕も相手に対して配慮を欠いた形で自分の幸福を相手の現状も省みず、うっかり伝えてしまうのだろうかということだ。

 昨日、次姉にそういう話をしてみたが、
 「なんや、あんたまだ結婚とか諦めてなかったん? こっちはとっくの昔に諦めたけど」
 姉は突拍子に屈託なく笑いながら、質問に答えていない回答を返してきた。

 次姉は大学を出てから15年間教員採用試験を受け続けたが、年齢制限の最後まで受かることは無かった。それから調理師の専門学校を出て料理の世界に入ったが、やはり女であることと年齢を経ていることが悪条件となって職場を転々としてそのうちに僕と同じく鬱病になった。
 次姉の場合、これまでの人生の中で例えば結婚という「就職」をする機会が無かったわけではないが、「自立していないから」という彼女なりの理由で結婚しようとしなかった。それどころか僕の知る限り、大学を出て以来、次姉は恋愛すらせずにストイックに教員試験や調理師の勉強ばかりしていた。親が「不憫」に思ったのか、見合い話なんてものを持ってきても全て断っていた。彼女は結婚という「就職」に収まる選択肢を全く考えてこなかった。

 ある意味変っているようにも思うのだが、むしろ、「女は就職できなければ結婚すればいい」という発想が当たり前として男の僕が考えることの方が女性に対して失礼なのかもしれない。

 だが僕は、ストイックすぎるまでなほど自立に拘って他者に頼らない次姉の生き方を、心の中で少し、たくましく思えてくる。


 
 報われ難い人生が切なくなった時は、僕は名古屋で暮らしていた時のことを思い出す。

 大学時代に数回の精神科入院を経て、僕は自分と同じく精神疾患に苦しむ人たちを助けたいと思って、精神保健福祉士の資格を得るために、名古屋の養成専門学校に入った。
 だが、病院実習や作業所へのボランティアに通う日々の中で、本当にギリギリの生存すらままならない日常を送っている人たちを見るにつけ、僕は真面目に考えれば考えるほど、自分が彼らを助けるどころか、彼らのハンディキャップにつけこんで搾取する側に回りかねないことの矛盾に悩まざるを得なくなった。

 搾取という言い方は適切ではないかもしれない。
 だが精神疾患というのは狭義の意味では服薬を絶やしてはならない病気で、言い換えれば治癒という終わりのない病気である。特に若い時期に重篤な疾患に見舞われたなら、社会的に半永久的なドロップアウトを余儀なくされることは決して珍しいことではない。
 そうなれば残りの人生を入院と通院を繰り返して費やすことになり、継続的な経済活動が難しいわけだから当然収入は安定しない。だが病気に終りがないということは薬や入院費を長年に渡って継続的に支払っていくのであり、精神科や製薬会社からしてみれば固定された患者であり、意地悪く言えば安定的に収益を見込める客でありカモなのである。

 だが「搾取されている」というのは当事者にしか分らない実感であり、当時の僕はただ闇雲に正義感を振りかざして誰かを断罪するだけの、そんな、本当に報われ難い人々にとっては「余裕のある他者」でしかなかった。






 ある作業所にボランティアに通っていた頃、当時30代ぐらいの独居男性の患者と親しくなった。

 彼はことあるごとに「精神障害の無い健常者の友達が欲しい」と口にしていた。他の作業所メンバーと仲が悪いわけでもないのだが、大勢の作業所仲間ではなく、当時は「健常者」であったボランティアの僕といつも話したがっていた。

 僕は彼の求めに応じるままに親しく話していたが、ボランティアの立場では禁じられている「電話番号の交換」をしてしまった。何度か電話で話して、ある時、作業所以外の場で会いたいという彼の気持ちに応じて、ある晩喫茶店で落ち合って二人で話した。

 だが今にして思えば、彼は自分から僕に求めながらも、気持の中で「健常者」の僕とボランティアとは関わりの無い場面で会うというシチュエーションに激しく緊張していたのだと思う。もしくは、今までボランティアで作業所に現れた「健常者」の中で彼の求めに応じたことは彼にとって稀有だったのかもしれない。彼は喫茶店に入った途端、突如平静を全く失ってしまった。彼の中で激しい幻聴症状が現れた。

 彼は喫茶店で向かい合った数時間、その殆ど全体を自分の幻聴の話を僕に延々と聞かせることに終始した。

 「オウムがサリンを撒いた頃は冥王星の基地でビームサーベルで戦うのに必死でさ、空間ワープ航法で星間戦闘が激しかったけどコスモクリーナーがバクテリアを撒き散らして中世期の騎士団が全滅してるんで、電磁波をもっと強烈に発砲したんだけど、敵の根拠地は千種区を包囲してるんだよ。どう思う? くそくらえだよ! あの時から波動砲が全然利かない、くそ、ハエがうるさい、ハエが……」

 激しく戸惑ったが、僕は全くその彼の「言葉のサラダ」と呼ばれる統合失調症の陽性症状による会話を遮ることが出来なかった。あまりにも澱みなく彼が喋り続けたというのもあるが、会話を遮ることが良いのか悪いのかわからなかった。
 それどころか「どうして冥王星にいたの?」という感じで、僕は彼の「言葉のサラダ」に付き合ってしまった。本当は幻聴体験を話していることに安易に応じてはいけないらしいのだが、それがどうしても出来なかった。

 結果的に僕は数時間に渡ってただひたすら彼の幻聴の話を聴き、彼に話を「聞いている」という事を知らせる相槌や質問して応える形で終わってしまった。
 僕たちは何一つ、友達らしい話を交わせず、終わった。


 だが喫茶店を出て別れる時、彼は不意に、幻聴ではなくいつもの口癖を一言、小さく、呟いた。



 「僕は病気じゃない友達が欲しいんだよ……」

 

 家路に向かう地下鉄の中で僕の頭はグラグラしていた。



 僕はこれまで大勢の患者さんと会ってきたが、なにか、そのことが全く無意味な体験でしかなかったような、僕の経験の価値が、どしゃっと崩れていくような気持ちだった。



 この世に救われないものがあると仮定するなら、その一端を見てしまったような気がした。

 それは幻聴を話した彼のことではない。

 彼に対してなすすべもなく、彼と正面で向き合うことで露呈した、僕の無力さ。欺瞞。思い上がり。

 それが救われないと思ったのだ。



 そのことがあってから、僕は彼のいる作業所にはボランティアに行けなくなった。彼から何度か電話があっても電話に出られなかった。

 「もし今晩電話をかけなおしてくれなかったら君の番号は削除する。でも良かったらかけてきてよ」

 長い没交渉の日々のあと、そんな留守番メッセージがあったが、僕は電話できなかった。彼からその後、僕に連絡することは全くなくなった。 

 僕はその喫茶店での出来事があって、「精神保健福祉士にはなれない」と深い諦めを自分の中で思い知らされた。たとえ資格を取っても、働けないと思った。

 それは別にナイーヴで感傷的な思いからそうなったわけではない。
 彼にはとうとう言わなかったが、僕が過去に入院を繰り返して、彼と同じ「病気仲間」だからこそ、彼をどうにかする立場になど立てるわけがない、そう思ったのだ。

 僕のようなシチュエーションが必ずしも普通だとは思わない。精神疾患を持っていてもソーシャルワーカーとして同じ疾患の人々を助けている人の存在は幾らか聞いたこともある。
 僕がそういう立場に立てなかったのは結局のところ、経過の結果でしかない。

 僕には病気の仲間を助けることなんかできやしない、僕はそう思いながら、資格だけ取るつもりで精神保健福祉士の国家試験の勉強を続けていた。

 そして結果としてその途上で僕自身の鬱病が再発し、入院してしまった。何とか短期間で入院を終えて、受験資格の単位だけでも取るつもりで、地元の精神化病院を出てからすぐに名古屋の精神科病院へ二ヶ月の実習に向かった。そして最初の一日で僕の病状がまたしても再発した。結局単位を取ることは出来ず、僕は専門学校を中退して地元に戻った。ドロップアウトして「健常者」には戻れなくなった。

 数年が過ぎて、僕は今、就労訓練を受けて、病院の作業所に通っている。






 報われ難い人生のことを思うとき、僕は名古屋のことを思い出す。

 緊張に激しく苛まれながら幻聴のことを僕に喋った彼のことを思い出す。

 僕は実感として、先に述べた「搾取」ということを考えたりすることがある。でも、それでもまだまだ自分の中に「報われ難い誰かにとっての余裕のある他者」を見出すこともある。
 自分が不当に恵まれているような、そんな後ろめたさが、僕をますます多くの人の人生の報われ難さへの眼差しへと駆り立てられずにはいられないのだ。

 若い頃は売春をしていたが身体を売ることも出来なくなってどこにも身寄りがなく余生を閉鎖病棟で暮らすおばあさんとか、ふとしたきっかけでアルコール依存になって家族も仕事も失ってホームレスになり、雨の日にブルーシートもなく子供から石をぶつけられるような路上生活を経て精神科に辿り着いたおじいさんだとか、ヤク中になって子供も育てられず入院して外泊するたびにシャブを打ってしまう若い母親、その子供の面倒を見ながら生活保護のお金をパチンコに使ってしまうその母親の母親だとか。

 人生を生きていく上で、幸せとか不幸だとかいう安易なレッテルを自他に貼り付けることなく、報われ難い人生をも、がむしゃらに懸命に生きていくために僕に必要だったこと、それを僕は名古屋でいろんな人たちの尊い生き様から教えて貰った。

 
 仕事に就いて、暮らしていけるだけのお金を得て、誰かと結婚して、自分の子供を授かって―。

 普通に平凡な人生のライフサイクルかもしれない。
 
 しかし病を背負った者にとって、その平凡を得ることがなんと非凡なほどに難しいことか。その「普通に平凡」という形容が、得られぬ人間にとってなんと哀しい呪縛に映ることか。
 
 幸せは結果であって、生き方なんて世界の人口分だけ多様に満ち溢れているはずなのだ。
 なのに「普通に平凡」という在るはずのない幻惑が、物や金が儘ならない人生から、ほんの少し満ち足りた一瞬のかけがえのない素朴さや、一人一人の心の中に分け隔てなく与えられた自分の尊厳の実感を、奪い取って、代わりに惨めな荒みを背負わせる。

 報われ難いというのはそういうことだ。
  
 
 報われ難さに屈する時、僕は誰かの暮らしを妬んで、ルサンチマンと絶望で世界を覆って見つめてしまう時もある。

 そんなときに、あの幻聴を語った彼を思い出す。思い出そうとする。

 だけど、なんのために思い出そうとするのか分らない。ただ、今なら僕は彼の口癖であった「病気じゃない友達が欲しい」という思いがなんであるのか、少し分るような気もする。少なくとも、彼の言いたかった本当の思いに自分も共に寄り添えるような気もする。


 「僕は病気じゃない友達が欲しいんだよ……」


 彼は「病気じゃない」ものの中に、「普通に平凡」な自分、手にすることが狂おしいほどに困難なささやかな自分の生き方を見出したかったのかもしれない。ささやかな充実を手にした人と繋がることが、彼が彼の困難な境遇を抜け出すための唯一の手段だったのかもしれない。

 彼がそうすることで本当に幸せになれるのかどうか、僕には分らない。
 「普通に平凡」なんて画一的な生き方はどこにもあるわけがない。世界には生きている人間の数だけ生き様があるのだ。みんな、唯一度の人生を唯一人の自分を精一杯生き切るのだ。
 
 他の誰でもない、紛れもないこの自分を、誰に押し付けられたわけでもない自分が信じた轍を踏んで、他の誰でもない自分だけの人生を終えることが出来ることが本来自由と呼ばれるものではないか。その自由を全うできた者だけが得られるものが、不安も未練も唯一つもない誇りなのではないか。

 
 ただそれは今の僕だから思えることに過ぎない。「病気じゃない」「普通に平凡」なものをまるで愛を乞うように健気で一途に追い求める彼を決して否定など出来ない。出来るはずがない。彼の気持ちはきっと必ず僕の中でもどこかで絶えず残り続ける思いでもあるのだから。

 思えば、きっと彼は報われ難い思いの中で、彼なりに彼のやり方で必死で自分の尊厳を探していたのだから。それがどのような道筋であろうとも、その懸命な生きる姿をなにゆえに詮無いものといえようか。

 そしてなにより、彼はたくさんの思いを抱えて、僕との友情を求めてくれたのだから。

 彼が生き方を変えるために必要な相手として、僕を選び、僕へと向かってくれたのだから。


 そんな彼の思いを理解するために僕は10年近い僕自身の苦悩の日々が必要だったのだ。さんざん打ちのめされ、やっと自分の人生を受け入れられる誇りを保てるところまで辿り着いた。だがあのとき彼を受け入れておいて結局最後に彼を締め出してしまったことへの彼の痛みを思い知らされるかのように、僕はあのとき彼が自分の境遇に感じていたであろう彼が生きることの苦しさの一端を、僕が生きることの苦しさとして10年近く味わった。彼を拒んだときの彼の痛みを自分のこととして身体全体で理解した。だが、理解したというのは不遜なのだ。

 彼がいま生きているならば、すでに僕が経験したもの以上のものを彼はいま受け入れているはずなのだ。そして後を追ってやがて僕もそこへ行くだろう。生きているならば、新しい受難が、彼から僕へ、タイムラグを経て受け渡される。そうやって僕らは繋がっている。

 繋がって生きているように、僕は思うようにしている。

 
 先日、いろいろ悩んだ折に東京の年上の友人にそのようなことを話した。
 友人は鬱病の他に視覚障害を持っていて、ゲイでもある。「普通に平凡」という呪縛に頭が縛り付けられた時、僕は自分よりもマイノリティとして誇り高く自由に生きる彼と話したくて電話する。


 「名古屋の彼のことを時々そんなふうに思い出すってすごいことだよ。その彼の存在にとってはね。遠い時間の向こうになにもかも押しやられても、誰かの生きていた姿を頭に思い浮かべるって、今もどこかにいるその人間が世界の中で孤独では決してないってことじゃないかな。その人間がいま現在生きている意味が、その瞬間に溢れ出るってことなんじゃないか。名古屋の彼は君が思い出してることは知らないわけだけどね。でも君が彼のことを思い出したら、その瞬間、どこかにいてどんなふうに生きていようとも、彼は決して一人じゃないんだよ。彼は今でも誰かの為に生きてるってことだと思うんだよ」


 ゲイの友人のそんな言葉に、思わずハッとさせられる思いだった。

 あの喫茶店で彼と話して別れた後、地下鉄の中でグラグラと僕を揺るがした、救われなさのことを思い出した。

 あのとき感じた、僕の無力さ。欺瞞。思い上がり。

 10年近く経過して、あの時から抱えたままだった救われなさが、報われて昇華される思いがした。
 
 ……それは一瞬泣きたくなったほどだった。彼を傷つけた僕の救われなさが、友人の言葉で許されたような、贖罪が実ったような、数年間にわたって記憶の隅で潜めていた自分に対するわだかまりが、氷解するように、僕は一瞬泣きたくなった。



 

 ボランティアに行っていたあの作業所からは、毎年正月になれば今でも年賀状を頂いている。

 
 僕も毎年ずっと手書きの文章を添えて賀状を送っている。


 文章を綴りながら、昔の苦悩を思う。


 苦悩に感謝している、懐かしい人々を思い出しながら、思い出して生きていられる苦悩の不思議さの神秘を感じながら。







music : Joe Strummer - Afro Cuban Bebop



May 27, 2010

Where the night turns out the lights of day





 大切な飼い猫を失ってから3週間が経つわけだが、毎日二回、朝と夜に遺骨に花と線香を手向けて読経を重ねる日々が続く。
 だというのに、ほんの数時間前、今度は飼い犬が亡くなった。先日亡くした猫と同じく12年ほど前から我が家で生き続けてきたメス犬だ。
 
 2週間ほど前から食欲不振が始まって、健康のおぼつかない状態が続いていたのだが、それでもほとんど死の前兆らしきものは全くなかった。だが二、三日前から急に元気を落とした感じはあった。
 それが昨日の朝になっていきなり高熱に侵され虫の息の状態になった。夜になってから身体が痙攣を始めて、上の姉が仕事から帰ったのを待ちかねたように、家族みんなに看取られながら息を引き取った。
 明日は甥が修学旅行に、上の姉が東京に出張に行くのだが、まるでそのタイミングを計るかのように、家族全員に後の憂いを残さないようにする如くして彼岸へ旅立った。


 正直、一月の間に立て続けに二匹もペットに死なれるとは思いも寄らないことであり、どのように受けとめていいことなのか、分らないままだ。

 何故に続く受難なのか、問うてみたところで詮無いものであるのは分りきったことである。

 ただ僕自身、最近、鬱の方がひどいものなので、こういった出来事が続くと、「どうして自分だけが……」と是非も無い感慨が頭に上らないわけでもない。
 なぜそのようなルサンチマンに襲われるのか、そのはっきりした理由は明確に分っているのだが、その出来事に対してあまり理性的に整理がつかない状態でいるので、ここには書く気分にはなれない。

 ただただ、自分を空中分解させないように、日々の思いを有り体に収拾させていることに今の僕は精一杯なのである。






 
  生死について思いを到らせて、時折そのような降りかかってくる受難を浴び続けていると、生きていることで自分に余分なものが削げ落ちていくような思いがする。

 新聞の大見出しが虚ろに流れて見えてくるような感じとでも言い表せばよいだろうか。

 働いていても、下らぬ俗物性は一向に下らぬままに流れていく。

 ただ、僕の中に留まるものがあまりにも少なすぎることが悲しく思えるときもある。


 ゆれながら、

 ゆれながら、

 生きることも詮無きほどにまで、ゆれながら、


 僕は次にやってくる確信を待つ。

 待ちわびている。











music : Hindi Zahra - Beautiful Tango





May 13, 2010

Just to touch you once again





 愛猫のみとのちゃんが他界した。
5月6日の午前7時過ぎだっただろうか、最期を看取った姉が知らせてくれた。
 苦しまずにほとんど老衰の状態で静かに息を引き取ったという。
年齢は分らない。僕が彼女と出会った時はみとのちゃんはもう大人の猫だったから。
 12年に渡って僕の人生の伴侶ともいえる大きな存在が昇天した。
僕のこれまでの人生で、最も苦しかった時代を一緒に生きてくれた彼女だった。


 3月の下旬ごろから固形のキャットフードがまったく食べられなくなった。
それから毎日スーパーで売れ残りで安くなったタイやカツオの刺身を買ってきて、調理師である二番目の姉がみじん切りに砕いて食べさせるようになった。一時期身体を持ち直したようにも見えたが、そういう食事も次第に受けつけなくなった。

 幼猫用の柔らかい離乳食を液体状にして太い注射器で直接口に流し込む方法も始めた。僕はそういったやり方がつらくてどうしても出来なかったので、食事の世話はほとんど姉一人の仕事になった。
日毎にやせ細っていった。最初は行動範囲が少なくなっても階段の上り下りも出来たが、そのうち水を飲むときしか身体を動かさず、一日身を横たえるような状態になっていった。人間でいう「床ずれ」のような感じで難渋しているようだった。死の一週間前ぐらいになると、自ら死に場所を探すために屋外へ出たがって、それも果たせず荒い息で家のあちこちで病臥していた。

 みとのちゃんが3月末に食べられなくなった早い段階から僕は彼女の死を覚悟するようにした。出来る限り一緒に寝てやるようにした。元気なときは面倒なのであんまり一緒に寝なかったが、彼女は昔から僕の腕枕で寝るのが大好きだったから。しかしそれもつかの間で、僕が寝るベッドの昇り降りも難しいほど栄養状態が乏しくなったので、床の上でしか寝られなくなった。今にして思えば僕も床に布団を敷いて一緒にいてやればよかったのだけど。

 そのうちに僕は休職中で終日家に居る姉に全ての世話を任せて、一日の数回しかみとのちゃんの傍にいてやれなくなった。最初は一緒にいてやると嬉しそうに喉を鳴らしていたが、そのうち苦しそうに僕を見ることしか出来なくなった。

 彼女の死期が近づくに連れ、僕は次第にみとのちゃんに接するつらさが限界に達してきた。苦渋に満ちた彼女を直視するのは本当につらいことだった。みとのちゃんは僕がつらいこと以上の苦渋を負っていたはずなのに。
 彼女は死の二、三日前になると、僕が呼びかけても精根尽き果てた生気のない眼差しを僕に向けることすら出来なくなっていた。

 みとのちゃんを失うことで、彼女と出会った大学時代の思い出、当時の恋人や友人、今は亡き恩師のこと、そういった人々との思い出や自分自身の生きた証がすべて喪失してしまうような、そんな妄想に僕は苛まれていた。そんなことは決してありえないはずなのに。
 だから僕はみとのちゃんを失うことに加えて、彼女を失うことは僕自身の何かを永遠に失ってしまうことであるかのようなそういう苦しみと、二重の哀しみを背負ってしまうような感情に襲われ続けた。
 僕にとって、彼女は僕が通り過ぎてきた人生の形見だったから。

 みとのちゃんが死んだ朝、彼女の亡骸と一緒に身を横たえて美しかった三毛の毛並みを幾度となく愛撫した。この心地よかった感触を決して忘れまいと僕の指先に刻み込むかのように。亡骸を心ゆくまで抱っこして、何度も頬ずりをして口付けした。死後硬直が始まるまでの僅かな間、決して身体を離したくなかった。病臥に身を横たえていた生前は虫の息で苦しそうな彼女を抱っこしてあげることすら叶わなかった。
 
 その日のうちにみとのちゃんを僕は火葬しに遠方の葬儀屋へ出かけ、骨壷一杯にありったけの骨を詰めてもらって帰宅した。彼女は今、僕の部屋で名も知れぬ花と一緒に静かに眠っている。






 
みとのちゃんは8年通った大学時代、数度引っ越したうち最後に住んだ京都の宝ヶ池近くのアパートに棲みついていた猫だった。

 野良猫だったとは今思い返してもそう思えない。あまり見かけないような美しい三毛猫だったし、割と人懐っこく、アパートのいろんな住人から餌をもらっていた。あの近辺は金持ちが多く住む住宅地の一角だったから、何処かの金持ちがペットショップで買った飼い猫がアパートに通ってきていたんじゃないかという気がする。それほどまるで絵に描いたように色分けの絶妙で上等な毛並みの三毛猫だった。

 当たり前だが最初は僕を警戒して遠巻きに見ていたが、鰹節をアパートの部屋の前に二回ほど彼女の目前で置いてやった。僕が見ない間に二回とも完食していた。次に彼女と出会ったときは、みとのちゃんは僕の足にいきなり頬ずりしてきて、僕が部屋に入ろうとすると積極的に一緒に入ろうとしてきた。部屋の中に入って僕が座ると、途端に膝の上に上がってきた。僕はそれまで実家で多くの飼い猫と接してきたが、拾ってすぐ懐くような猫には出会ったこともなかったので少なからず驚いた。

 それからすっかり僕とワンルームで「同棲」するようになった。勿論、僕の下宿がペットの入居が許されていた訳でもなく、大家には内緒の密やかな二人の暮らしだった。

 僕は飼う意思も定かでないまま、戯れに先に名前をつけた。「みとの」というのは自主映画製作を一緒にしていた当時の友人が戯れに発案した。彼が高校時代から片思いだった女性の名前である。女性の母はクリスチャンだったそうで、名前もキリスト教の何かにちなんだ言葉らしいがよく覚えていない。言葉の音が気に入ったのでそれからすぐにそう呼ぶようにした。名付け親の友人は実らなかった片思いを思い出すのが苦しかったらしく、彼の戯れな発案をじきに後悔するようになった。

 みとのちゃんが飼い猫だったのではないかと僕が思うのは、用便の際に必ず部屋から出してくれと頼む習慣があったからだ。絶対に室内で用を足さず、僕が寝ていても僕の頭に爪を立てて起こした。
 僕と一緒にいるときは出来る限り僕の膝の上で居たがったし、寝る時は腕枕を執拗に催促した。とにかく僕に密着しなければ気が済まない甘え様で、一般的に犬のようには甘えを請わず人間に媚びず気ままに自立して生活する猫の習性を実家で多く体験してきた僕を、最初は大いに戸惑わせたものだ。猫好きの人なら分って頂けると思うが、それぐらい度が過ぎてというほど猫ではなく犬のように甘えん坊だった。
 アパートの前に原付で帰ってくると、必ず走って傍に迎えに現れた。母が下宿に泊まっていた時など、みとのちゃんは部屋の中にいると、室外から聞こえる僕のバイクのエンジン音と僕の足音を他の人間のそれとはっきり区別して反応していたらしく、僕が帰ってくると玄関の前で待っていて、ドアを開くと飛び出してきて頬ずりしてきた。

 だが、決して愛想のいい猫だった訳ではない。僕の部屋に訪問する来客には、通常の猫の習性がそうであるように激しく警戒して逃避しようとした。人間の好き嫌いがとてもはっきりしていて、彼女にとって苦手な人間には絶対になつかなかった。その反面、初めて会った人間でも不思議に心を許して毛並みを愛撫されて喜ぶ時もあった。全体として用心深い性格だったので、僕には不思議なほど簡単に懐いた割には多くの人や状況に極端に気を許さず、そのギャップがとても不思議だった。みとのちゃんが長命だったのは彼女が用心深かったからだと僕は思っている。

 普通、猫の鳴き声というのは「ニャア」とか「ニャオ」という擬声語で表される。無論その通りの正確な発音で鳴くわけではないが、多くの場合大体そういうニュアンスに含まれる鳴き声だと思う。
 みとのちゃんはちょっと変った鳴き声をしていた。表記してみれば「あ、うーん」とか「あ、おーん」というような鳴き声で、どんな鳴き方にも「あ」というアクセントを必ず強調させるように取り込んでいた。決して媚びるような鳴き方ではないが、どこか艶のあるような「女性らしい」聞き心地のいい高音だった。
 
 猫の世界で「美人」とも言えるような、表情の美しい顔をしていた。別に飼い主の贔屓目ではないのだけれど、それは今でも11匹の猫を飼っていて昔から多くの猫を見てきた僕や僕の家族の一致した意見だったし、だから猫好きの友人たちにはとても可愛がられた(みとのちゃんは怖がっていたが)。
 身体は割りとぶくぶくと太って大きな身体だったが、背筋がサラッとしていた。お尻を地に着けて立っている時は必ず前足を前後交互に揃え、きちんと尻尾を足に綺麗に巻きつけ、背筋をすっと伸ばす。毛並みが美しい三毛を帯びていたからその立ち居振る舞いが凛として見えて、家族の者は「まるで祇園の芸妓さんみたい」と面白がっていた。自身もなにかその立ち居振る舞いに神経質なようでいて、それは死期が近づき動けなくなったついこの間まで続き、うちの還暦過ぎた母を感心させたものだった。
 
 とにかくよく僕に甘えて、愛を請うような、されども見知らぬ者に打ち解けるわけでもなく、品の良い姿で人恋しさを目の憂いに静めたような、掃除機の音が大嫌いなみとのちゃんだった。






 
みとのちゃんが愛を請うようだと最初に形容したのは、その当時の僕の恋人だった。
 「みとのちゃんは愛して貰いたがってるのよ」と事あるごとに口にして、僕以上にみとのちゃんを可愛がったのもその彼女だった。
 僕は彼女がみとのちゃんを愛撫して愛に応じることにすら、みとのちゃんに嫉妬していた。
 当時の僕はその女性を計り知れないほど愛していた。あれほどの愛情で愛した女性は今に至るまで他にない。

 その女性を僕は一年かけて恋人にした。職業の進路でさえ変えてしまったし、みとのちゃんに出会うことになった下宿へ引っ越したのも女性が住んでいるアパートの近所だったからだった。
 それ以前にも女性との交際はあったが、僕にとって初恋のような恋愛だった。それぐらい甘美であったし大きなリスクを省みず、なにもかも捧げた。

 みとのちゃんはその恋愛、僕が最初で最後の価値と情熱を尽くした"Crying Game"の過程を全て見届けた唯一人の存在だったのだ。

 みとのちゃんは僕たちの恋愛の一部だった。
 彼女が僕の部屋に泊まった朝、彼女が目覚める前に朝食を作る。彼女は食事の匂いに目覚めて、僕の代わりに隣で眠っていたみとのちゃんを抱きしめる。そして僕にキスする。3人で朝食を食べる。僕が学校に行く前に先に彼女が仕事に出かける。玄関で彼女はみとのちゃんにキスした後、僕にもキスする。彼女が出かけた後、僕はみとのちゃんと一緒に残された余韻を楽しむ。
 そんな感じだ。僕と恋人との間でみとのちゃんは何か絆のようなものだった。

 恋人と二人で鳥取砂丘に旅行した時も彼女は「みとのちゃんも連れて行けないの?」と本気で言う。犬じゃあるまいし、猫は車に乗せることすらストレスなのだが。
 僕たちがベッドで愛し合って恍惚に耽っているときも、あろうことか、みとのちゃんはベッドに登ってきて裸の僕と恋人の間に無理やり割り込もうとする。僕が怒って払いのけると、恋人が「なんであかんの?」と笑って、みとのちゃんを僕らの間で寝かせてやって頭を撫でてやる。
 まるで僕ら二人の子供のようだと、その一瞬だけ秘かに思った。一瞬だけ、この恋愛の、ありえない先のことを思い描いたものだった。


 あまりに人を愛しすぎると、未来なんてない。あるのは極端な恍惚と苦悩への疲労感、一瞬にすべてが見通してしまうような寂しさを孕んだ刹那的な現実感のみである。
 だからその恋愛の最中にはどのような展望も空虚にしか映らなかった。
 だけどそれでも、僕にとって擬似的であれ恋人との家庭を欲するナイーヴな物語の中で、みとのちゃんはその家族のうちの構成員だった。


 恍惚と苦悩もつかの間に、いろいろな困難を尽くして苦渋のうちに早々と僕たちの恋愛は終わらざるを得なかった。
 恋人は最後に「もう話す必要がなくなった」と僕に告げた。彼女が僕の部屋を出て行ったその朝、最後の最後に疲れを湛えながらも満面の笑みで彼女は愛しげに別れを惜しむように、みとのちゃんを何度も何度も愛撫して、寂しげに出て行った。それっきりとうとう二度と僕の前には姿を現さなかった。
 暫くは電話で僕たちは話し続けたが、絶望的な結果は覆らなかった。

 「みとのちゃんに優しくしてあげて」。

 その彼女の言葉以来、みとのちゃんはすべての記憶を刻んだ忘れ形見となった。
 
 初恋のようにへヴィーな過程を辿ったのだから、僕は感情の残り火をどうすることも出来ず、ただただ母を失くした赤子のように闇雲に苦しむだけだった。僕はすでにその3年前から鬱病を病み始めていたから、苦悩は病的な色彩で日常を侵食してどんどんすべてを狂わせた。

 愛情が破局してのちいつ頃からか、部屋のクローゼットのドアノブに電気コードを巻きつけて垂らして置くようになり、そのコードを眺めながら過ごす日々が続き、僕の絶望は破局をどんどん招き寄せた。。僕はそれ以前に一度、薬の大量摂取による自殺を図って病院に運ばれた未遂の過去があった。だから「今度は確実に終わらせよう」という決意があった。

 何がその引き金となったのかは覚えていない。ある晩、ほとんど衝動のままに僕はその電気コードに首をかけた。本当に衝動だった。感情もなかった。ただ「ああ、こういうふうにみんな逝くんだ」というように自分の衝動を眺めながら頚椎を絞めようとする、なんの抑揚もなく自分を捨てる虚ろな「納得」があった。

 何事もなければ僕はあのまま死んでいたように思う。今まで会ったこともないその「納得」は僕を何も考えさせず、行動にだけ駆り立てて、背中を突き落とす「装置」としては完全だったから。僕はその「装置」に殺されようとしていた。

 だが、不意に、みとのちゃんが僕の体に向かって飛びついてきたのだ。

 僕は電気コードを首にかけてから、みとのちゃんが飛びついてきた直後までの過程をイメージとして全く覚えていない。ただ、みとのちゃんが飛びついてきたことがあまりに「唐突」に思えたことだけは覚えている。その唐突さは、僕の抑揚のない衝動や奇怪な「納得」を一気にぶち壊すには十分だった。

 みとのちゃんを抱えながら、僕の中にだんだんと人間らしい感情が噴出すように表れて零れ落ちてきた。容器に浸した水がその淵から滴るように気持ちが流れ、さめざめと涙が出た。

 その直後にある知人に電話で助けを求めた。その知人が一晩僕を自宅に泊めて保護してくれて、家族に連絡してくれた。両親によって僕は実家に帰り、地元の大学病院の精神科で初めての入院生活に入ることになった。

 入院するに当たって、「その間の猫の世話をどうするか」が一番の問題になった。もはやみとのちゃんはアパート住人みんなにとっての猫ではなく、すっかり僕とだけ暮らす存在になっていたからである。
 今から思えばただ餌をやるだけなら、僕の知り合いの誰であっても良かったのだが、「僕の不在」によってみとのちゃんが僕の前から消えるかもしれないことを危惧していた。もはや、みとのちゃんはこれからも一緒に生きていきたいかけがえのない命だった。

 だから僕は、厚かましくも別れた恋人に不在の間の世話を頼んだ。彼女は快く引き受けてくれた。

 入院前に大学に行って担当教授に会い、入院に至るまでの経緯を話した。先生はすべてを受容してくれたのち、「その猫と別れた恋人が君の中で同一化しているんだな」と優しく諭すように言ってくれた。そのことを今でも覚えている。この先生にはその後も多大な援助を頂いたが、今はもう故人になられて会うことも叶わない。みとのちゃんは先生の言葉によって、先生への僕の追憶をも纏う存在となった。 


 三ヶ月に渡った入院生活を終えて、僕は無事にみとのちゃんと再会できた。

 別れた彼女は多忙であったと思うが、時には泊まってみとのちゃんと一緒に寝てやってくれたらしい形跡が不在の部屋に残されていた。ポストに部屋の鍵が入っていて置手紙があった。

 「素敵な人生が待っていますよ。苦しいと思うことも、すべて幸せにつながっていると思うから」

 みとのちゃんが去った今、彼女が残した言葉が単なる慰めや誇張でなかったことは、11年経って今の僕にはよく分かっている。僕はそこまで来れたのだ。


 最初の入院から一年以上経って、またしても僕は京都市の近く、長岡京市の精神科に入院した。このときのみとのちゃんの餌やりは付き合いの長い友人に頼んだ。
 初めの入院の時よりも、このときの入院の方が僕の中でみとのちゃんのことを思い煩う気持ちが強かった。はっきりした理由はわからないが、長岡京市での入院生活はいろんな意味で僕の人生を変えるほど過酷なものを見たことと関係してるかもしれない。僕はこのときの主治医に盛んに猫への心配を訴えたことはよく覚えている。

 入院中、何度か下宿に外泊させてもらったのだが、すべての理由が「猫に会うため」だった。最初の外泊か、それとも二度目の外泊の時までか覚えていないが、みとのちゃんに全く会えないまま僕は外泊を終えて落胆して病院に戻った。餌の減り方を見てみとのちゃんが「待っていてくれている」ことを信じるしかなかった。

 だが会えなかったその次の外泊の時、まもなく病院に戻る帰り支度を始めようかとした矢先に、みとのちゃんの鳴き声がしてアパートの部屋の前で久々に再会できたとき、あのときほど僕はみとのちゃんと完全に思いが通じ合えて互いに喜び合ったことはなかったと今でも光景を思い出せる。病院に戻るギリギリの時間まで、みとのちゃんの思うがままに僕は彼女の数え切れない頬ずりを一身に受け、夕刻の宝ヶ池のアパートで無心に与えられる愛情の有難さがどれほど計り知れないものかを体感せずにいられなかった。

 僕はみとのちゃんによって命を拾うことが出来たが、僕がこうして生きてこれたのはそれだけが理由ではない。

 あの一番苦しかった時期に、みとのちゃんが僕をいっぱい愛してくれたから生きてこれたのだ。





 
大学を卒業して京都の下宿を引き払う時、僕は迷わずみとのちゃんを実家の徳島に連れて行くことを決めたが、実際にそれを為すことには相当の痛みと心配を伴わずにいられなかった。

 猫の習性としては相応の年月を経て長年生まれ育った環境から全く別の環境に移されることは、それこそ生死に関わってくるほどの重圧を加えることに等しいからである。今でも悲壮なほどに泣き喚く彼女をペット用の籠の中に無理やり押し込んで車で連れ帰ったときの苦しさは忘れられない。
 空っぽになった下宿で半ば欺くような調子でみとのちゃんを捕まえて、父が「今、放したら二度と捕まえられないぞ」と厳しい剣幕で絶叫する彼女を籠の中に押し込んだときの、あのときの心の痛みは、みとのちゃんが死んだ今でも残っているくらいだ。



 それから今に至るまでの10年間、結果としてみとのちゃんは寿命を全うし、老衰という形で長命の半生を終えたのだが、よくそこまで生きてくれたものだと思う。

 環境は変わってもみとのちゃんは強く生き続けてくれた。その過程では僕が名古屋に引っ越したことがあって一年近く会えなかったことも、彼女が徳島に移ったごく初期の段階であったというのに、彼女はその環境に順応していつも僕を「待っていて」くれた。

 飼い猫は避妊や去勢手術をしないかぎり、発情期になるとある時、急に居なくなってしまって野良猫同然の苛酷な環境に耐えられず、その結果命を落としてしまうこともざらにある。だからみとのちゃんも徳島に戻ってから手術を行うつもりだったのだが、獣医に見せると手術痕が見当たらないということだった。避妊手術をしていなくても発情しない猫もいないことはないらしいが、ともかく彼女は一度も発情することなく、どこかへ出て行って消えてしまうこともなく、ずっと僕の傍に居続けてくれた。

 病気らしい病気を患ったことは一度もなかった。だから本当に老衰という限りなく自然に叶った形でその命を終えたのだ。



 みとのちゃんの末期の期間をうろたえるばかりで、自分の日常を半ば見失うような茫然自失に陥ったままに、一番大切な彼女に寄り添ってやれなかったことに悔いは残っている。
 彼女が居なくなった今になって、僕はこういうものを書きながら彼女の魂をゆっくり送り出そうとしている。そこには悔いに基づいた贖罪の気持ちがある。僕はみとのちゃんの最期を看取ることも出来なかったのだから。

 ただ彼女が居なくなったことへの喪失感は寂しさに彩られても、それは悲しみとは違うという気がする。

 僕は最後の最後に自分の苦しみにのみ苦しみ続けてしまった。だが、食べられなくなってからも、みとのちゃんが意外にも長く生き続けてくれたことは、結果的に僕に対してお別れへの準備のための猶予を与えられた形となった。
 それによって、僕は宿命的に避けられない命と命の別れに際して、それを自然なものとして、むしろ彼女の末期の姿から数え尽くせないほど数々のものを教わったという思いで、お別れを迎えられた。

 僕の中にみとのちゃんを失ったことへの傷はない。懸命に命を全うしてくれたのだから。
 彼女は僕が悲しむことを望んでいない。それを僕が何より一番よく理解している。彼女の願いと僕がそれに報いる気持ちは、お互いに通じ合っているのだから。

 埋め尽くされた愛情と、決して変らない美しい思い出、潜り抜けてきた懸命な過去に対する意味、これからも辿るであろう受難を僕が信念で生きていく力と向かうべき行き先。みとのちゃんはこれだけ多くのものを残してくれたのだ。


 これだけ無垢に愛されたことはなかった。

 みとのちゃんははたまたま猫であったが、僕はそれでもこれほど愛してもらったことが人間と他の生命の関係の中で、それが「当たり前」のこととは、どうしても思えないのだ。

 彼女と過ごした年月は苦難に多い尽くされた険しい道のりだった。みとのちゃんはそこにすべて僕と共に立ち会ってくれた。

 彼女に命を救われた頃と彼女が旅立った今、その間に僕は本当に強くなって、より他者を思いやることの出来る人間にある程度のところまで辿り着いた。

 みとのちゃんと歩んだ時間の変遷を思うとき、彼女はある意味僕が「独り立ち」とも呼べそうなところまで生き続けてくれて、猫の寿命を考えれば十分過ぎる時間を終えて、成長した僕を見届けて、安堵のうちに永眠したのではないかという思いすらある。いや、これからの僕が、彼女の願いに報いるべく生きなければ駄目なのだ。

 思えば彼女はいつもずっと「待っていて」くれたのだ。

 僕は彼女が「待っていて」くれた時間の中で、自死せずに生きていけるだけの思念を持てたのだ。
 僕の自殺を阻んでから僕がここにようやく辿り着くまで、ずっと傍にいて僕のこのような道程を見守って、僕を信じて待っていてくれたのだと。僕にはそのように思わずにはいられない。


 僕は今、この彼女へのこみ上げてくる愛情をどのように表したらいいのか、分らない。

 火葬場であなたと最期にお別れする前に、あなたの手を握った感触とあの時の気持ちは死ぬまで忘れない。決して忘れられないよ。




 いっぱいありがとう、みとのちゃん。


 これほど愛してたなんて、
 あなたが僕から別れゆくまで気づかなかった。   本当にね。本当にね……。



 あなたを愛せて、僕は、いま、嬉しい。泣きたいぐらい嬉しい。
  
 僕はこんなにも愛することが出来る人間だったなんてね。







 全部、あなたが教えてくれた。


     
       それがあなただったんだね。




                  
         ありがとう。






                    さようなら。














music : Bread - Everything I own