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headbaner

May 13, 2010

Just to touch you once again





 愛猫のみとのちゃんが他界した。
5月6日の午前7時過ぎだっただろうか、最期を看取った姉が知らせてくれた。
 苦しまずにほとんど老衰の状態で静かに息を引き取ったという。
年齢は分らない。僕が彼女と出会った時はみとのちゃんはもう大人の猫だったから。
 12年に渡って僕の人生の伴侶ともいえる大きな存在が昇天した。
僕のこれまでの人生で、最も苦しかった時代を一緒に生きてくれた彼女だった。


 3月の下旬ごろから固形のキャットフードがまったく食べられなくなった。
それから毎日スーパーで売れ残りで安くなったタイやカツオの刺身を買ってきて、調理師である二番目の姉がみじん切りに砕いて食べさせるようになった。一時期身体を持ち直したようにも見えたが、そういう食事も次第に受けつけなくなった。

 幼猫用の柔らかい離乳食を液体状にして太い注射器で直接口に流し込む方法も始めた。僕はそういったやり方がつらくてどうしても出来なかったので、食事の世話はほとんど姉一人の仕事になった。
日毎にやせ細っていった。最初は行動範囲が少なくなっても階段の上り下りも出来たが、そのうち水を飲むときしか身体を動かさず、一日身を横たえるような状態になっていった。人間でいう「床ずれ」のような感じで難渋しているようだった。死の一週間前ぐらいになると、自ら死に場所を探すために屋外へ出たがって、それも果たせず荒い息で家のあちこちで病臥していた。

 みとのちゃんが3月末に食べられなくなった早い段階から僕は彼女の死を覚悟するようにした。出来る限り一緒に寝てやるようにした。元気なときは面倒なのであんまり一緒に寝なかったが、彼女は昔から僕の腕枕で寝るのが大好きだったから。しかしそれもつかの間で、僕が寝るベッドの昇り降りも難しいほど栄養状態が乏しくなったので、床の上でしか寝られなくなった。今にして思えば僕も床に布団を敷いて一緒にいてやればよかったのだけど。

 そのうちに僕は休職中で終日家に居る姉に全ての世話を任せて、一日の数回しかみとのちゃんの傍にいてやれなくなった。最初は一緒にいてやると嬉しそうに喉を鳴らしていたが、そのうち苦しそうに僕を見ることしか出来なくなった。

 彼女の死期が近づくに連れ、僕は次第にみとのちゃんに接するつらさが限界に達してきた。苦渋に満ちた彼女を直視するのは本当につらいことだった。みとのちゃんは僕がつらいこと以上の苦渋を負っていたはずなのに。
 彼女は死の二、三日前になると、僕が呼びかけても精根尽き果てた生気のない眼差しを僕に向けることすら出来なくなっていた。

 みとのちゃんを失うことで、彼女と出会った大学時代の思い出、当時の恋人や友人、今は亡き恩師のこと、そういった人々との思い出や自分自身の生きた証がすべて喪失してしまうような、そんな妄想に僕は苛まれていた。そんなことは決してありえないはずなのに。
 だから僕はみとのちゃんを失うことに加えて、彼女を失うことは僕自身の何かを永遠に失ってしまうことであるかのようなそういう苦しみと、二重の哀しみを背負ってしまうような感情に襲われ続けた。
 僕にとって、彼女は僕が通り過ぎてきた人生の形見だったから。

 みとのちゃんが死んだ朝、彼女の亡骸と一緒に身を横たえて美しかった三毛の毛並みを幾度となく愛撫した。この心地よかった感触を決して忘れまいと僕の指先に刻み込むかのように。亡骸を心ゆくまで抱っこして、何度も頬ずりをして口付けした。死後硬直が始まるまでの僅かな間、決して身体を離したくなかった。病臥に身を横たえていた生前は虫の息で苦しそうな彼女を抱っこしてあげることすら叶わなかった。
 
 その日のうちにみとのちゃんを僕は火葬しに遠方の葬儀屋へ出かけ、骨壷一杯にありったけの骨を詰めてもらって帰宅した。彼女は今、僕の部屋で名も知れぬ花と一緒に静かに眠っている。






 
みとのちゃんは8年通った大学時代、数度引っ越したうち最後に住んだ京都の宝ヶ池近くのアパートに棲みついていた猫だった。

 野良猫だったとは今思い返してもそう思えない。あまり見かけないような美しい三毛猫だったし、割と人懐っこく、アパートのいろんな住人から餌をもらっていた。あの近辺は金持ちが多く住む住宅地の一角だったから、何処かの金持ちがペットショップで買った飼い猫がアパートに通ってきていたんじゃないかという気がする。それほどまるで絵に描いたように色分けの絶妙で上等な毛並みの三毛猫だった。

 当たり前だが最初は僕を警戒して遠巻きに見ていたが、鰹節をアパートの部屋の前に二回ほど彼女の目前で置いてやった。僕が見ない間に二回とも完食していた。次に彼女と出会ったときは、みとのちゃんは僕の足にいきなり頬ずりしてきて、僕が部屋に入ろうとすると積極的に一緒に入ろうとしてきた。部屋の中に入って僕が座ると、途端に膝の上に上がってきた。僕はそれまで実家で多くの飼い猫と接してきたが、拾ってすぐ懐くような猫には出会ったこともなかったので少なからず驚いた。

 それからすっかり僕とワンルームで「同棲」するようになった。勿論、僕の下宿がペットの入居が許されていた訳でもなく、大家には内緒の密やかな二人の暮らしだった。

 僕は飼う意思も定かでないまま、戯れに先に名前をつけた。「みとの」というのは自主映画製作を一緒にしていた当時の友人が戯れに発案した。彼が高校時代から片思いだった女性の名前である。女性の母はクリスチャンだったそうで、名前もキリスト教の何かにちなんだ言葉らしいがよく覚えていない。言葉の音が気に入ったのでそれからすぐにそう呼ぶようにした。名付け親の友人は実らなかった片思いを思い出すのが苦しかったらしく、彼の戯れな発案をじきに後悔するようになった。

 みとのちゃんが飼い猫だったのではないかと僕が思うのは、用便の際に必ず部屋から出してくれと頼む習慣があったからだ。絶対に室内で用を足さず、僕が寝ていても僕の頭に爪を立てて起こした。
 僕と一緒にいるときは出来る限り僕の膝の上で居たがったし、寝る時は腕枕を執拗に催促した。とにかく僕に密着しなければ気が済まない甘え様で、一般的に犬のようには甘えを請わず人間に媚びず気ままに自立して生活する猫の習性を実家で多く体験してきた僕を、最初は大いに戸惑わせたものだ。猫好きの人なら分って頂けると思うが、それぐらい度が過ぎてというほど猫ではなく犬のように甘えん坊だった。
 アパートの前に原付で帰ってくると、必ず走って傍に迎えに現れた。母が下宿に泊まっていた時など、みとのちゃんは部屋の中にいると、室外から聞こえる僕のバイクのエンジン音と僕の足音を他の人間のそれとはっきり区別して反応していたらしく、僕が帰ってくると玄関の前で待っていて、ドアを開くと飛び出してきて頬ずりしてきた。

 だが、決して愛想のいい猫だった訳ではない。僕の部屋に訪問する来客には、通常の猫の習性がそうであるように激しく警戒して逃避しようとした。人間の好き嫌いがとてもはっきりしていて、彼女にとって苦手な人間には絶対になつかなかった。その反面、初めて会った人間でも不思議に心を許して毛並みを愛撫されて喜ぶ時もあった。全体として用心深い性格だったので、僕には不思議なほど簡単に懐いた割には多くの人や状況に極端に気を許さず、そのギャップがとても不思議だった。みとのちゃんが長命だったのは彼女が用心深かったからだと僕は思っている。

 普通、猫の鳴き声というのは「ニャア」とか「ニャオ」という擬声語で表される。無論その通りの正確な発音で鳴くわけではないが、多くの場合大体そういうニュアンスに含まれる鳴き声だと思う。
 みとのちゃんはちょっと変った鳴き声をしていた。表記してみれば「あ、うーん」とか「あ、おーん」というような鳴き声で、どんな鳴き方にも「あ」というアクセントを必ず強調させるように取り込んでいた。決して媚びるような鳴き方ではないが、どこか艶のあるような「女性らしい」聞き心地のいい高音だった。
 
 猫の世界で「美人」とも言えるような、表情の美しい顔をしていた。別に飼い主の贔屓目ではないのだけれど、それは今でも11匹の猫を飼っていて昔から多くの猫を見てきた僕や僕の家族の一致した意見だったし、だから猫好きの友人たちにはとても可愛がられた(みとのちゃんは怖がっていたが)。
 身体は割りとぶくぶくと太って大きな身体だったが、背筋がサラッとしていた。お尻を地に着けて立っている時は必ず前足を前後交互に揃え、きちんと尻尾を足に綺麗に巻きつけ、背筋をすっと伸ばす。毛並みが美しい三毛を帯びていたからその立ち居振る舞いが凛として見えて、家族の者は「まるで祇園の芸妓さんみたい」と面白がっていた。自身もなにかその立ち居振る舞いに神経質なようでいて、それは死期が近づき動けなくなったついこの間まで続き、うちの還暦過ぎた母を感心させたものだった。
 
 とにかくよく僕に甘えて、愛を請うような、されども見知らぬ者に打ち解けるわけでもなく、品の良い姿で人恋しさを目の憂いに静めたような、掃除機の音が大嫌いなみとのちゃんだった。






 
みとのちゃんが愛を請うようだと最初に形容したのは、その当時の僕の恋人だった。
 「みとのちゃんは愛して貰いたがってるのよ」と事あるごとに口にして、僕以上にみとのちゃんを可愛がったのもその彼女だった。
 僕は彼女がみとのちゃんを愛撫して愛に応じることにすら、みとのちゃんに嫉妬していた。
 当時の僕はその女性を計り知れないほど愛していた。あれほどの愛情で愛した女性は今に至るまで他にない。

 その女性を僕は一年かけて恋人にした。職業の進路でさえ変えてしまったし、みとのちゃんに出会うことになった下宿へ引っ越したのも女性が住んでいるアパートの近所だったからだった。
 それ以前にも女性との交際はあったが、僕にとって初恋のような恋愛だった。それぐらい甘美であったし大きなリスクを省みず、なにもかも捧げた。

 みとのちゃんはその恋愛、僕が最初で最後の価値と情熱を尽くした"Crying Game"の過程を全て見届けた唯一人の存在だったのだ。

 みとのちゃんは僕たちの恋愛の一部だった。
 彼女が僕の部屋に泊まった朝、彼女が目覚める前に朝食を作る。彼女は食事の匂いに目覚めて、僕の代わりに隣で眠っていたみとのちゃんを抱きしめる。そして僕にキスする。3人で朝食を食べる。僕が学校に行く前に先に彼女が仕事に出かける。玄関で彼女はみとのちゃんにキスした後、僕にもキスする。彼女が出かけた後、僕はみとのちゃんと一緒に残された余韻を楽しむ。
 そんな感じだ。僕と恋人との間でみとのちゃんは何か絆のようなものだった。

 恋人と二人で鳥取砂丘に旅行した時も彼女は「みとのちゃんも連れて行けないの?」と本気で言う。犬じゃあるまいし、猫は車に乗せることすらストレスなのだが。
 僕たちがベッドで愛し合って恍惚に耽っているときも、あろうことか、みとのちゃんはベッドに登ってきて裸の僕と恋人の間に無理やり割り込もうとする。僕が怒って払いのけると、恋人が「なんであかんの?」と笑って、みとのちゃんを僕らの間で寝かせてやって頭を撫でてやる。
 まるで僕ら二人の子供のようだと、その一瞬だけ秘かに思った。一瞬だけ、この恋愛の、ありえない先のことを思い描いたものだった。


 あまりに人を愛しすぎると、未来なんてない。あるのは極端な恍惚と苦悩への疲労感、一瞬にすべてが見通してしまうような寂しさを孕んだ刹那的な現実感のみである。
 だからその恋愛の最中にはどのような展望も空虚にしか映らなかった。
 だけどそれでも、僕にとって擬似的であれ恋人との家庭を欲するナイーヴな物語の中で、みとのちゃんはその家族のうちの構成員だった。


 恍惚と苦悩もつかの間に、いろいろな困難を尽くして苦渋のうちに早々と僕たちの恋愛は終わらざるを得なかった。
 恋人は最後に「もう話す必要がなくなった」と僕に告げた。彼女が僕の部屋を出て行ったその朝、最後の最後に疲れを湛えながらも満面の笑みで彼女は愛しげに別れを惜しむように、みとのちゃんを何度も何度も愛撫して、寂しげに出て行った。それっきりとうとう二度と僕の前には姿を現さなかった。
 暫くは電話で僕たちは話し続けたが、絶望的な結果は覆らなかった。

 「みとのちゃんに優しくしてあげて」。

 その彼女の言葉以来、みとのちゃんはすべての記憶を刻んだ忘れ形見となった。
 
 初恋のようにへヴィーな過程を辿ったのだから、僕は感情の残り火をどうすることも出来ず、ただただ母を失くした赤子のように闇雲に苦しむだけだった。僕はすでにその3年前から鬱病を病み始めていたから、苦悩は病的な色彩で日常を侵食してどんどんすべてを狂わせた。

 愛情が破局してのちいつ頃からか、部屋のクローゼットのドアノブに電気コードを巻きつけて垂らして置くようになり、そのコードを眺めながら過ごす日々が続き、僕の絶望は破局をどんどん招き寄せた。。僕はそれ以前に一度、薬の大量摂取による自殺を図って病院に運ばれた未遂の過去があった。だから「今度は確実に終わらせよう」という決意があった。

 何がその引き金となったのかは覚えていない。ある晩、ほとんど衝動のままに僕はその電気コードに首をかけた。本当に衝動だった。感情もなかった。ただ「ああ、こういうふうにみんな逝くんだ」というように自分の衝動を眺めながら頚椎を絞めようとする、なんの抑揚もなく自分を捨てる虚ろな「納得」があった。

 何事もなければ僕はあのまま死んでいたように思う。今まで会ったこともないその「納得」は僕を何も考えさせず、行動にだけ駆り立てて、背中を突き落とす「装置」としては完全だったから。僕はその「装置」に殺されようとしていた。

 だが、不意に、みとのちゃんが僕の体に向かって飛びついてきたのだ。

 僕は電気コードを首にかけてから、みとのちゃんが飛びついてきた直後までの過程をイメージとして全く覚えていない。ただ、みとのちゃんが飛びついてきたことがあまりに「唐突」に思えたことだけは覚えている。その唐突さは、僕の抑揚のない衝動や奇怪な「納得」を一気にぶち壊すには十分だった。

 みとのちゃんを抱えながら、僕の中にだんだんと人間らしい感情が噴出すように表れて零れ落ちてきた。容器に浸した水がその淵から滴るように気持ちが流れ、さめざめと涙が出た。

 その直後にある知人に電話で助けを求めた。その知人が一晩僕を自宅に泊めて保護してくれて、家族に連絡してくれた。両親によって僕は実家に帰り、地元の大学病院の精神科で初めての入院生活に入ることになった。

 入院するに当たって、「その間の猫の世話をどうするか」が一番の問題になった。もはやみとのちゃんはアパート住人みんなにとっての猫ではなく、すっかり僕とだけ暮らす存在になっていたからである。
 今から思えばただ餌をやるだけなら、僕の知り合いの誰であっても良かったのだが、「僕の不在」によってみとのちゃんが僕の前から消えるかもしれないことを危惧していた。もはや、みとのちゃんはこれからも一緒に生きていきたいかけがえのない命だった。

 だから僕は、厚かましくも別れた恋人に不在の間の世話を頼んだ。彼女は快く引き受けてくれた。

 入院前に大学に行って担当教授に会い、入院に至るまでの経緯を話した。先生はすべてを受容してくれたのち、「その猫と別れた恋人が君の中で同一化しているんだな」と優しく諭すように言ってくれた。そのことを今でも覚えている。この先生にはその後も多大な援助を頂いたが、今はもう故人になられて会うことも叶わない。みとのちゃんは先生の言葉によって、先生への僕の追憶をも纏う存在となった。 


 三ヶ月に渡った入院生活を終えて、僕は無事にみとのちゃんと再会できた。

 別れた彼女は多忙であったと思うが、時には泊まってみとのちゃんと一緒に寝てやってくれたらしい形跡が不在の部屋に残されていた。ポストに部屋の鍵が入っていて置手紙があった。

 「素敵な人生が待っていますよ。苦しいと思うことも、すべて幸せにつながっていると思うから」

 みとのちゃんが去った今、彼女が残した言葉が単なる慰めや誇張でなかったことは、11年経って今の僕にはよく分かっている。僕はそこまで来れたのだ。


 最初の入院から一年以上経って、またしても僕は京都市の近く、長岡京市の精神科に入院した。このときのみとのちゃんの餌やりは付き合いの長い友人に頼んだ。
 初めの入院の時よりも、このときの入院の方が僕の中でみとのちゃんのことを思い煩う気持ちが強かった。はっきりした理由はわからないが、長岡京市での入院生活はいろんな意味で僕の人生を変えるほど過酷なものを見たことと関係してるかもしれない。僕はこのときの主治医に盛んに猫への心配を訴えたことはよく覚えている。

 入院中、何度か下宿に外泊させてもらったのだが、すべての理由が「猫に会うため」だった。最初の外泊か、それとも二度目の外泊の時までか覚えていないが、みとのちゃんに全く会えないまま僕は外泊を終えて落胆して病院に戻った。餌の減り方を見てみとのちゃんが「待っていてくれている」ことを信じるしかなかった。

 だが会えなかったその次の外泊の時、まもなく病院に戻る帰り支度を始めようかとした矢先に、みとのちゃんの鳴き声がしてアパートの部屋の前で久々に再会できたとき、あのときほど僕はみとのちゃんと完全に思いが通じ合えて互いに喜び合ったことはなかったと今でも光景を思い出せる。病院に戻るギリギリの時間まで、みとのちゃんの思うがままに僕は彼女の数え切れない頬ずりを一身に受け、夕刻の宝ヶ池のアパートで無心に与えられる愛情の有難さがどれほど計り知れないものかを体感せずにいられなかった。

 僕はみとのちゃんによって命を拾うことが出来たが、僕がこうして生きてこれたのはそれだけが理由ではない。

 あの一番苦しかった時期に、みとのちゃんが僕をいっぱい愛してくれたから生きてこれたのだ。





 
大学を卒業して京都の下宿を引き払う時、僕は迷わずみとのちゃんを実家の徳島に連れて行くことを決めたが、実際にそれを為すことには相当の痛みと心配を伴わずにいられなかった。

 猫の習性としては相応の年月を経て長年生まれ育った環境から全く別の環境に移されることは、それこそ生死に関わってくるほどの重圧を加えることに等しいからである。今でも悲壮なほどに泣き喚く彼女をペット用の籠の中に無理やり押し込んで車で連れ帰ったときの苦しさは忘れられない。
 空っぽになった下宿で半ば欺くような調子でみとのちゃんを捕まえて、父が「今、放したら二度と捕まえられないぞ」と厳しい剣幕で絶叫する彼女を籠の中に押し込んだときの、あのときの心の痛みは、みとのちゃんが死んだ今でも残っているくらいだ。



 それから今に至るまでの10年間、結果としてみとのちゃんは寿命を全うし、老衰という形で長命の半生を終えたのだが、よくそこまで生きてくれたものだと思う。

 環境は変わってもみとのちゃんは強く生き続けてくれた。その過程では僕が名古屋に引っ越したことがあって一年近く会えなかったことも、彼女が徳島に移ったごく初期の段階であったというのに、彼女はその環境に順応していつも僕を「待っていて」くれた。

 飼い猫は避妊や去勢手術をしないかぎり、発情期になるとある時、急に居なくなってしまって野良猫同然の苛酷な環境に耐えられず、その結果命を落としてしまうこともざらにある。だからみとのちゃんも徳島に戻ってから手術を行うつもりだったのだが、獣医に見せると手術痕が見当たらないということだった。避妊手術をしていなくても発情しない猫もいないことはないらしいが、ともかく彼女は一度も発情することなく、どこかへ出て行って消えてしまうこともなく、ずっと僕の傍に居続けてくれた。

 病気らしい病気を患ったことは一度もなかった。だから本当に老衰という限りなく自然に叶った形でその命を終えたのだ。



 みとのちゃんの末期の期間をうろたえるばかりで、自分の日常を半ば見失うような茫然自失に陥ったままに、一番大切な彼女に寄り添ってやれなかったことに悔いは残っている。
 彼女が居なくなった今になって、僕はこういうものを書きながら彼女の魂をゆっくり送り出そうとしている。そこには悔いに基づいた贖罪の気持ちがある。僕はみとのちゃんの最期を看取ることも出来なかったのだから。

 ただ彼女が居なくなったことへの喪失感は寂しさに彩られても、それは悲しみとは違うという気がする。

 僕は最後の最後に自分の苦しみにのみ苦しみ続けてしまった。だが、食べられなくなってからも、みとのちゃんが意外にも長く生き続けてくれたことは、結果的に僕に対してお別れへの準備のための猶予を与えられた形となった。
 それによって、僕は宿命的に避けられない命と命の別れに際して、それを自然なものとして、むしろ彼女の末期の姿から数え尽くせないほど数々のものを教わったという思いで、お別れを迎えられた。

 僕の中にみとのちゃんを失ったことへの傷はない。懸命に命を全うしてくれたのだから。
 彼女は僕が悲しむことを望んでいない。それを僕が何より一番よく理解している。彼女の願いと僕がそれに報いる気持ちは、お互いに通じ合っているのだから。

 埋め尽くされた愛情と、決して変らない美しい思い出、潜り抜けてきた懸命な過去に対する意味、これからも辿るであろう受難を僕が信念で生きていく力と向かうべき行き先。みとのちゃんはこれだけ多くのものを残してくれたのだ。


 これだけ無垢に愛されたことはなかった。

 みとのちゃんははたまたま猫であったが、僕はそれでもこれほど愛してもらったことが人間と他の生命の関係の中で、それが「当たり前」のこととは、どうしても思えないのだ。

 彼女と過ごした年月は苦難に多い尽くされた険しい道のりだった。みとのちゃんはそこにすべて僕と共に立ち会ってくれた。

 彼女に命を救われた頃と彼女が旅立った今、その間に僕は本当に強くなって、より他者を思いやることの出来る人間にある程度のところまで辿り着いた。

 みとのちゃんと歩んだ時間の変遷を思うとき、彼女はある意味僕が「独り立ち」とも呼べそうなところまで生き続けてくれて、猫の寿命を考えれば十分過ぎる時間を終えて、成長した僕を見届けて、安堵のうちに永眠したのではないかという思いすらある。いや、これからの僕が、彼女の願いに報いるべく生きなければ駄目なのだ。

 思えば彼女はいつもずっと「待っていて」くれたのだ。

 僕は彼女が「待っていて」くれた時間の中で、自死せずに生きていけるだけの思念を持てたのだ。
 僕の自殺を阻んでから僕がここにようやく辿り着くまで、ずっと傍にいて僕のこのような道程を見守って、僕を信じて待っていてくれたのだと。僕にはそのように思わずにはいられない。


 僕は今、この彼女へのこみ上げてくる愛情をどのように表したらいいのか、分らない。

 火葬場であなたと最期にお別れする前に、あなたの手を握った感触とあの時の気持ちは死ぬまで忘れない。決して忘れられないよ。




 いっぱいありがとう、みとのちゃん。


 これほど愛してたなんて、
 あなたが僕から別れゆくまで気づかなかった。   本当にね。本当にね……。



 あなたを愛せて、僕は、いま、嬉しい。泣きたいぐらい嬉しい。
  
 僕はこんなにも愛することが出来る人間だったなんてね。







 全部、あなたが教えてくれた。


     
       それがあなただったんだね。




                  
         ありがとう。






                    さようなら。














music : Bread - Everything I own




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