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headbaner

May 27, 2010

Where the night turns out the lights of day





 大切な飼い猫を失ってから3週間が経つわけだが、毎日二回、朝と夜に遺骨に花と線香を手向けて読経を重ねる日々が続く。
 だというのに、ほんの数時間前、今度は飼い犬が亡くなった。先日亡くした猫と同じく12年ほど前から我が家で生き続けてきたメス犬だ。
 
 2週間ほど前から食欲不振が始まって、健康のおぼつかない状態が続いていたのだが、それでもほとんど死の前兆らしきものは全くなかった。だが二、三日前から急に元気を落とした感じはあった。
 それが昨日の朝になっていきなり高熱に侵され虫の息の状態になった。夜になってから身体が痙攣を始めて、上の姉が仕事から帰ったのを待ちかねたように、家族みんなに看取られながら息を引き取った。
 明日は甥が修学旅行に、上の姉が東京に出張に行くのだが、まるでそのタイミングを計るかのように、家族全員に後の憂いを残さないようにする如くして彼岸へ旅立った。


 正直、一月の間に立て続けに二匹もペットに死なれるとは思いも寄らないことであり、どのように受けとめていいことなのか、分らないままだ。

 何故に続く受難なのか、問うてみたところで詮無いものであるのは分りきったことである。

 ただ僕自身、最近、鬱の方がひどいものなので、こういった出来事が続くと、「どうして自分だけが……」と是非も無い感慨が頭に上らないわけでもない。
 なぜそのようなルサンチマンに襲われるのか、そのはっきりした理由は明確に分っているのだが、その出来事に対してあまり理性的に整理がつかない状態でいるので、ここには書く気分にはなれない。

 ただただ、自分を空中分解させないように、日々の思いを有り体に収拾させていることに今の僕は精一杯なのである。






 
  生死について思いを到らせて、時折そのような降りかかってくる受難を浴び続けていると、生きていることで自分に余分なものが削げ落ちていくような思いがする。

 新聞の大見出しが虚ろに流れて見えてくるような感じとでも言い表せばよいだろうか。

 働いていても、下らぬ俗物性は一向に下らぬままに流れていく。

 ただ、僕の中に留まるものがあまりにも少なすぎることが悲しく思えるときもある。


 ゆれながら、

 ゆれながら、

 生きることも詮無きほどにまで、ゆれながら、


 僕は次にやってくる確信を待つ。

 待ちわびている。











music : Hindi Zahra - Beautiful Tango





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