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headbaner

Aug 17, 2010

Simple doubt to the Bhutanese





Happiness is subjective. And, it is a result and not a purpose.

GDP is only an expedient standard. However, GNH is an ideology.
Is "Freedom to choose misfortune" admitted for the ideology?




ブータンという国は前国王が国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念を提唱していて、独自の緩やかな近代化政策や環境保護、伝統文化保持で知られる国で、ある種の人々からは理想的な国家像として語られることが多い。僕も10年程前にこの国に旅行したし、Facebookでブータン人の友達もいて話したりすることもある。

そのブータンに関して、最近見つけたのがこのような記事だ。

クーリエ連載:ブータンの民主主義」(2007/6)

あまりにもブータンは理想的な国として喧伝されるので、実際にはこういった現実があるというのは別段不思議でもないし、おそらく事実だろうと思う。

国民総幸福量だとか、我が国の首相の「最小不幸社会」だとか、幸福や不幸にまつわる事柄に関して僕が思うのは、戦争や飢餓といった絶対的な極限を別にして、幸福や不幸という極めて個人的主観に属する価値観を、国家が関与するようなことは、斬新なように見えて実はとても後退化した手法だと思うのだ。

幸福は国家や集団が規定するものではなく、個人が追求するものだ。なぜなら幸福は必ず幾許かの不幸を前提としていて、幸福感とは個人的な事情・理由によって投影されるものであるからだ。そして個人の幸福感という感情に国家が関与することは許されないことだ。、どのような価値であれ、個人の感情に国家という強制力を伴う代物が足を踏み入れるのはファシズムと手法を同じくしているからである。

国民の幸福度を高めることを国是とするのは、見方を変えれば為政者の執政に予め正統性を保証しているだけのことなのである。しかし政治は国民が幸福である可能性を整備するのであって、国民の幸福それ自体を目指すことは不可能なのだ。個人が幸福を求めるための生存を保証するのは近代的な国家であるが、幸福という精神性までも保証することはできない。
国家が精神性になにがしかの接近を行うようであれば、それは北朝鮮の主体思想や中世の宗教的国家像といった異形の姿と近づきかねず、危険な行為と言わざるを得ない。

幸福には幾許かの不幸が前提となると僕は言ったが、国家がやるべきことはその幾許かの不幸に国家が関与しないようにせいぜい努力するほどのことなのだ。幸福を求めるには個人が生存していることが必要だから、社会権というものがある。
国民総生産は社会権の充実をある一面においてだけ計量出来るかもしれない尺度にすぎない。 だが国民総幸福量というのは根拠のない指標であり、根拠がなければイデオロギーでしかなく、社会主義国の国家が持つ独善性と大差なきものとなりかねないのではと思う。

ブータンが実際にどのような国であるかは問題ではない。だが、国民総幸福量という美名に乗せられずに正確に物事を考えようと努めれば、そのような疑問が浮かび上がるというだけの話だ。

少しも幸福の前提にならない幾許かの不幸があるとすれば、それは幸福とは不幸が全く関与しない絶対的な価値だと錯覚してしまうことである。

不幸が感じられないところには幸福も存在しない。なぜなら痛みを知らない人間は痛みを逃れることを初めから考えられないからである。そして痛みを知らない人間だらけの場所には人々に共感作用というものもない。

そもそも幸福は幸福を目的とすることから不幸が始まっている。そのような不幸は何の意味もない。だが幸福とは一見何の幸福も期待し得ないような苦悩や欠乏を通過した後、直感において瞬間に生まれる「意図せぬ結果」である。

それを理解できないところでは、ブータンに対するある人たちのの如何わしいユートピア幻想は如何わしく続くのだろう。




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