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headbaner

Sep 13, 2010

Insignificant matter about "a right" and "the human rights"





 いろいろとツッコミどころの多いブログ記事を見つけて、あれこれといろいろ考えたのだが、私の思ったことをごく端的な私的メモのつもりで記しておく。



共に幸せになる道を探そう」(人権や権利という対立からの自由)- 森へ行こう(心とからだと子育てと)



 政治的カテゴリの概念である民主主義を、別次元のカテゴリである親子の関係や自然と人間との関係性に置き換えて話を進めること自体がナンセンス。パレスチナ問題を嫁姑の喧嘩話に喩えるような愚劣さと同じで、問題の複雑さを矮小化して情報量を意図的に減らして無理やり我田引水しているに過ぎない。

 人権とか福祉とは人間が自然発生的に社会規範を整えたり他者を思いやることが出来るとは看做さない立場から生まれたものだ。
 言い換えれば何の教育も受けずに完全に放任されて育っても自然と人助けが出来るような人間ばかりなら人権という概念は必要ない。
人権が語れるのは人権が保障されてるからだ。

 権利とは対立的な思考に基づくものでなく自立的思考から考えるべきだ。
 誰しも自分の社会的行為や人生に対する自己決定を主体的に行う自由意志を有している。他者に依存してしまうことなく自分にとって最も最善の道を自分で考えて自分の意志で決定し行使する。
 その一連の自立的過程こそが権利である。

 人権や権利を主張する人達に対し「寂しい人」と断じる見下すのは何故か。
 自分の気持ちや存在を受け入れてもらっていないと感じることは寂しいことだが、それは当人に自分の人権や権利が認めてられているという充足感がないからではないか。
 つまり自分の寂しさを決して受容していない卑屈さの現れである。権利を正統的手段で主張しようとする人々に対する屈折した羨望、そのような真似をできない自らの非力さに関する劣等感情こそが、このような妬みに満ちた誹謗しか吐けなくさせるのだ。

 DV やACに限定して言うなら“with”ではなくむしろ“own”の志向が大事だと思う。
 他者依存や共依存傾向こそがこれらの問題解決を遠ざけるからだ。
 自分の意思や権利を大事にして主張できなければ相手を同じく対等な権利を持った自立的他者として尊重できない。対等な意識こそが関係を安定させるのだ。

 そもそも「幸せ」と「権利」を同枠で論じることは破綻する。
 過剰であろうとも権利を主張することに自分が充足できるなら相手からどう映ろうとも幸せなのだ。
 換言すると充足している相手を貶めることにしか自分が躍起になれないならそんな負の感情は不快という不幸せしかもたらさないかも知れない。

 子育てというカテゴリに限って言うならば、「共に幸せになる道」と論じるなら「子どもの視点」を持つということが「子どもの権利」を我が子に促すことに他ならないことを悟るべきだ。
 もっとも僕は「共に幸せになる道」は「共に自立する過程」の結果として対等な相手を思いやれる自分の充足感だと思う。

 僕は子育てはしたことないから何か言う資格はないかもしれない。 
 ただ僕は自分の親に対して、親であると同時に自分とは異なる意思を持つ当たり前の他者であること、親の立場という権利を有した独立した人格だと看做せるようになって、初めて親と和解できた。それが老いてゆく親への思いやりへと繋がった。
 親子の関係は子育てのみで終了するわけではない。親の老いを子がどのように迎えるかといった事柄にまでその課題は存続するのである。



 最後に。

 民主主義が弱者を生むのではない。
 「人権」とか「権利」という考え方に対立的構図を見いだす者の、民主主義とは相容れない排他的な不寛容こそが弱者を作るのだ。



 

『「人権」とか「権利」という概念は、民主主義を守るためのものであって、人を守るために生まれたものではありません』


 

『それは子どもには「人権」や「権利」という概念がないからだけではなく、子どもが求めているものが「人権」や「権利」ではないからです』




 この言葉をじっくり注目して欲しい。
 「人権」や「権利」の言葉にこのようなファッショに似た反動的な悪罵をつらつら書けるのは、もはや異論の他者を「対立的」な存在として抹殺したい者の悪意の本音が十二分に暴かれている。



 それはもはや誰をも幸せになどしない、恐怖社会すら望む陰湿なルサンチマンに他ならない。





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