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headbaner

Mar 13, 2010

Sad love song wearing shade of resignation







彼の歌を聴きたくなる時は決まって僕の中に諦念が帯びてくる。
自分の心が大きな振幅に振り回されそうになるときほど、僕の中で彼は僕自身を生きるためのより良きイメージだ。
そのイメージを思って、僕は振幅を通過しようとする。
だけど、大抵は彼の歌のように足を掬い取られて、より良きダメージに叩きつけられるんだけれども。


カルチャークラブの "Time" を検索してたら先日発見。

Senri's Tapestry 洋楽訳詞集 Time★Culture Club

かなり秀抜な訳詞。英語詩を書くようになった今だから思うのかも。こういう言い換えが全くあざとく感じない。曲の取り方が変った。



Culture Club - Time (Clock Of The Heart)



ボーイ・ジョージは自分の書いた歌は小学生のラブソングみたいだと言ってたけど、僕は恋愛していない時でも "Time" を聴くと切なくなるのは自分に似た諦念に近いようなことを歌うから。
この訳詞は女性的な目線から割りと大人の言葉で書いてるけど今まで彼の歌をこういう角度で描かれなかったから新鮮。

例えば、

"This could be the best place yet. But you must overcome your fears"



この部分を、

「いい逃げ場所だったでしょう 今度はあなた自身を見つめる番 」



なんて訳され方は今までなかった。
ボーイ・ジョージは常にぬいぐるみ的なマスコットとして消費されてきたから。
この部分は

「僕はこんな気分を味わったことがない
 でも君は自分の悲しみを乗り越えなきゃダメだよ」

みたいに、ナイーヴな男の子っぽい立場から訳されることが多かった。
でも実際にどちらの訳詞でも意味は叶う英語。

それに、

"Touch we touch was the heat too much, I felt I lost you from the start "



「触れ合う感触が あまりに熱すぎたから 
はじめからあなたを失ったって 感じてたわ」



このような露骨に性的な色を滲ませた訳され方は殆ど禁忌だったと思う。ジョージはぬいぐるみだったから。
でもこの部分は誰かが禁忌を破って初めて分かるけど、性的なニュアンスから素朴に吐露された思い以外なにものでもない。

思えばボーイ・ジョージがゲイであることを公言したのはずっと後のことで、サッチャー政権時代はゲイを社会的に拘束する動き(同性愛を称揚する活動はすべて禁止するという、地方自治体法案第28節)が現れてソロになってからのジョージが "No clause28" と歌ったりしてた訳で、ジョージのゲイセクシャリティは自己同一化されなかったしそれを許さない形で彼は大人しく消費されていたのだ。
だから "Time" ってのはジョージの立場からすればかなりギリギリのところで自己表明を薄っすらと伝えていた官能的な哀切だったのかもしれない。彼はゲイを公言した時に正直に告白したのは、

「バイであると嘘を言っていたのは苦しかった。でもゲイだと本当のこと言うのはもっとつらかった」

そういうようなことだった。






ネイティヴではない僕は幾つものバリアを通してこの歌を聴いていたのだけど、単純に切ないメロディと歌詞が気に入ってたのだけど、ジョージのソロも含めてもこれがフェイバリットソングなのはsexのアイデンティティを越えても普遍的なことを率直に表現してるから好きだった。
それにウェットというか、凄く「濡れてる」感じが好きだった。それは精神的な包容感と拒絶というせめぎ合いの意味でもあるし、ジョージのルックスに通ずるなにかマテリアルな幻惑でもあり、彼ののボーカルスタイルでもある。
"Sink me in a river of tears"(涙の川に沈む)という表現は言葉以上の響きをとても感じる。ジョージのマイノリティな立場も含む哀切感を僕が直感的に感じ取っていたとは思わないけど。

ボーイ・ジョージがゲイ公言のきっかけとなった "Crying game" なんかは同名映画の内容もあって、かなり彼の立場に沿った受け取り方を我々はしていたと思うけれど、これはオールディーズのカバー。
1998年にカルチャークラブがTV番組で "Time" を再演しているのを見て僕は金縛りに近いほどの感動を強く受けた。


Culture Club - Time (Live Storytellers 1998)


ジョージは相変わらず綺麗だったしアレンジが変ったわけでもない。
でも歌ってるジョージの表情がとても印象的だったのは、彼がこの曲を初めて歌った頃のような自己存在の縛りから解き放たれて自分の歌を自分らしく歌ってるような感じを受けたから。
以前よりもずっとハスキーなトーンで渋みがあって、ゆったり落ち着いて歌ってるんだけど、言葉一つ一つを語りかけるような、聞き手に幾分挑発的な衝動感を伴って "Time" が歌われてるような気がした。

最初に戻って、僕がwebで見つけた訳詞を秀抜だと思ったのは、まさにそういう自己存在の縛りから解き放たれたジョージが彼自身の人生を彼の言葉で歌っているようなイメージからの眼差しを感じたからだ。直情的な投げ返しを愛する者にしてしまう、ウェットに流される官能的歓びが強ければそれほど相手を喪失してしまう予感を抱いて自分になりきれないまま別け隔てられてしまう、そういう恋に対する憤りに似た哀切感を上手く説明している気がした。

それはボーイ・ジョージがゲイであることからくる阻害や哀しみから歌われるとは必ずしも思わない。
だってそれはゲイという括りから生まれる他者的・社会的な阻害を歌ってるんじゃないと思う。
自分自身のどうしようもない感情によって自分が阻害された哀しみを歌っているのだと思うから。

そしてギリギリの立場から描かれた表現と言うのはいつも縛りを持っているけど、だからこそ普遍的な色合いを帯びて多くの感動で迎えられることは少なくないと思う。

普遍的な色合いを持つということは常に開かれた扉から迎えられるとは思わない。

人は自分が日頃感じているほど自分が自由ではない。
僕は恋愛の局面でそれを多く感じる。

あり余る自由の中の選択によって、僕らは寂しさを知って、寂しさに裏打ちされた孤独の不自由を憶える。
僕らは物事を決定していくことで何かを生むけれども、
同時進行で確実に何かを失っていく顛末を幾度も見てきている筈なのだ。


"もっと沢山のことが出来たはずなのに 私達の「時」には 何もありはしない"




こういう諦念が自分でも驚くほど揺るがなくなった時、僕はその諦念への実直な表明に肩を寄せたい気持ちを静かに感じる。








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