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headbaner

Mar 21, 2010

When you desert someone at Timeline

以下の文章は全てここ最近の私がTwitterに日を跨いで連続投稿したものである。
一つの投稿文を示すために改行で区切った。





自意識が過剰なツイートはmixiの日記のそれより遥かに引いちゃうな。



もうすぐ映像ソフトが来るみたいだ。まもなく自分の長年の作品に向き合わざるを得なくなる。長編に取り組むことが出来るのは幸せな筈なのだけど、急き立てられているような思いになるのは僕が単純に愚直にしか人生を考えられないからだろう。それでいいのだ。



タイムラインの袋小路で現を抜かすよりも、愚直で凡庸な魂を一つ背負って彷徨うのが僕にふさわしい。今年こそは映像に取り組むと決めてからまだ三月だ。今年のうちにどれだけかのことをやれればよい。詩も書いてるし、それでいい。幸福感を得られなくてもそれでいい。背中を向けずに生きられれば。



昔からスノッブが苦手なのは今より若い頃からスノッブな友人が多かったからだろうな。背景が透けて見えてしまうから。こんなに愚直になってしまったのは1000床もある精神病院を見たからだろうな。収容されたホームレスとか身寄りのない女郎とかの終の棲家だった。粉飾が一切ない世界だった。



F・K・ディックが似たようなことを言ってたのを見て本質以外は貧弱な粉飾だと思った。だから粉飾に粉飾を上塗りするようなものは何も作れなくなった。スノッブは貴族趣味の自己顕示でそれが光の子供でも闇の子供でも自己顕示以外に目的がない。つまり言辞に本質がない。トリッキーな廃品回収なのだ。



スノッブが概してエキセントリックなのはノーマルを意識しているからだ。だけど初めから変な人はノーマルすら意識できないから石を投げられ追われる。それが分ればスノッブってのはモガとかマルクスボーイみたいな極めてスマートな自意識の振幅だと言うことが分る。だが僕が関心を持つのはそこではない。



初めから世界に向かう意識を剥奪された存在、統合失調症の人なんかは鬱病の僕が大嫌いなTVを熱心に見る。あれって、世界の内に存在している意識を取り戻そうとする無辜な営みだと僕は思っている。不幸を意識できる人は幸せなのだ。本当に不幸なのは自分が不幸であることを意識する力も失った人達だ。



だから僕は自意識とか関心のベクトルには非常な注意を向ける。それがどれだけ本質を救おうとしているかどうかにはもっと大きな注意を払う。愚直と思われて笑われてもいい。これからだって悪もスノッブも爛れた退廃も僕はたくさん通過するだろう。僕は風景を通過する。そして決意して生きるだけだ。







通院してる病院の理事長夫人は病院では経理の肩書きでまだ30代なのだが若い頃にモデルをやっていたらしい。日頃心を病んだ人達が思い体を引きずってやってくる病院でモード雑誌から飛び出してきたような衣装で堂々と病院玄関から入ってくる唯一の病院職員でもある。



その彼女がある日入院患者の運動会でジャージ姿で現れた。日頃がモード雑誌だからそのギャップに驚いた。運動会の後にケースワーカーに理事長夫人がジャージを着ていたと話すと、ワーカーは嫌らしい笑みを含んでこう言った。「あの人は形から入るから」



格言でもないが「セレブとスノビズムの相似点、それは形から入ることだ」。



昔スノッブを写真に撮ったような先輩がいて、柄谷行人を読んでゲンズブールを聴きジタンを吸って居酒屋で臆面もなくワインをオーダーするような人だった。「僕はいつも変ってると言われて困ってるんです」。ある時彼にそう相談したことがある。何もかもが変ってるに収束されて僕は本当に悩んでいた。



「お前が変ってるんじゃない。お前の言い方が変ってるんだよ」。スノッブ先輩はそう言った。彼の言葉は15年経っても忘れない。それ以降、変ってると言われても何も苦痛ではなくなった。何故かと言えば、振る舞いに注意したから。それでも変ってるならそれは僕の本性だろう。俗物根性とは関係ないから。









ネットが文字ではなく姿の対面空間が広がればスノビズムもショーヴィニスムも激減するのではないか。虚飾も粉飾も無意味になるからだ。しかしこの二者が大手を振ってネットを徘徊している以上、 webカメラで公的に交流するようなサービスは絶対に生まれない。文字ってのは化けの皮で今は皆が化けの皮。



書くことってのは自虐や自己否定ですら自己顕示のポーズであり正当化だ。それを破壊できるのはルックスを晒すってことだ。なぜなら目に見える仕草を制御できる才能はマスにはないからだ。ネットは仕草が見えないからマスにとって都合がいいのだ。仕草こそが言辞の俗物性を正確に明らかにする。



老いは醜く障害は晒し者と化すし不細工はこれ以上ない破綻だ。僕がそう思っていると言いたいのではなく、斜に構えてノーマルとの距離を精密に測るような世話しない不安こそが最もそれを恐れているのだ。



タイピングしてブログやツイートを打つよりも、簡素化されたwebカメラで言葉を吐いてアップロード出来るエントリー機能が開発されれば実に楽な筈なのだ。140字なんてセコイことを推し進めなくてもね。そんなものは絶対に流行らない。そんな恐ろしいことは誰も参加する勇気がない。リスクだけだ。



匿名性が消えるリスクではない。居所を簡単に教えるようなツールに興じても、化けの皮が剥れることが彼らのリスクなのだ。メモリが発達してどんどん写真はUpできても対面可能な動画だけは無理だろう。ボイスブログだって流行っていない。誰も如実な物を求めていない。ネットは実に如実を恐れている。



僕はwebカメラを買ってからスカイプをやっているが文字ってのが実に人を反映していないことをまざまざと感じた。簡単にエキセントリックを破壊する。人を知るには人が必要だが文字ではなく音声やモニターから現れる姿だ。スカイプって言うのは如実という篩にかけて粉飾を落とすツールかもしれない。



逆にスカイプを使って文字以上に親しみを感じた人もいる。というかそもそもそれが人格との対面なのだ。文通がツールであった時は誰もそれが対面だとは誰も思わなかった筈だ。しかしブログや SNSという繋がりで人格と対面しているかのように錯覚する出来事は仮想では現実の主流なのだ。








スノビズムやショーヴィニスムが俗物人格の切ない玩具であるうちは嘲笑でそれを笑える。だが実際にファッショを招くのは現実とは一歩手前のメディアであり、そのメディアを支えているのは如実を恐れる貧弱な精神なのだ。そもそもが貧弱だからモガモボはポーズを決めている間に易々と取り込まれたのだ。



僕の本質を救うという喩えは如実から経験するということに繋がるかもしれない。少なくとも粉飾を上塗りして人格を虚像化して貧弱をカムフラージュする自己乖離の破綻を遠ざけることにはなるかもしれない。しかしそんなことは5年程前から気が付いていた。だが僕は易々とツールを支えてしまっている。



過剰な自意識に溺れたロジックというのは取るに足らないものだ。馬鹿はそんなものは放たない。指摘されなくても必然的に淘汰される。だからサブカルチャーも含めた文化的権威をスタイルに纏うのだ。引用とは俗物が携帯するアクセサリーである。生活が引用の山であることも少なくはない。



スノビズムとショーヴィニスムが双子の兄弟であることはそれらが引用が本質を追い抜いて補強されていることからも分る。そしてショーヴィニスムが梯子崩しの論理の点で空疎であるように、スノビズムは詩的表現の濫用において空疎でもある。どちらも人に伝えることより人を煙に撒くことが主眼なのだ。



煙に撒くのは人格の如実に触れさせないためである。奇妙なようだが詩的表現が目的ではなくそれが人格模造のための手段になることは有り得る。だからスノビズムの究極的目標が人格模造であることもまた有り得るのだ。なぜ人格を模造するのか。それはリアルの痛みに嘘を糊塗するためである。



ショーヴィニスムの世界に「リア充」という天敵がいるように、スノビズムも寒い現実を裏返すように絶え間ない引用と爛れたロジックをネットに放射する。引用的な生活のみを書けばいいのだ。それだけで寒い如実は他人の目を瞑らせる。だが自分の目を瞑ることは出来ない。だから現実は二極化分裂する。



二極化した生活と分裂した喜怒哀楽。それを邁進してネットを器用に渡ることは不幸である。二極化と分裂に際して神経症的な不安を露呈させられることは良心からの尋問である。良心とはこの場合他人に対するものではない。自分を裏切ることへの自分に対する良心である。良心でなければ真実と言い換えよう。







ネットにある真実はどこまでも仮定的な真実だ。なぜならネットで言動する人間が真実を吐いてる確証が仮定的であるからだ。僕が140字のSNSに敵意を抱くのはそれが人を幸福にするとは思えないからだ。他人に幸福をもたらすとも思えない。僕がこう書くことすら猜疑心の山を築くに違いないだろう。



リアルを知ることと伝わること。それが相手を安堵させることもあるが、この二つを徹底して排除することがたとえ独善的でもその者の幸福であることも存在する。それがネットのもたらす相対性である。そして今こうしていてもネットは幸福観を揺るがす強度を送り込んで僕達に更新を迫る、不安にさせる。



だがネットを支えているのが如実を恐れる僕達の貧弱な精神である限り、ネットは価値を相対化し続けるだろう。スノビズムとショーヴィニスムはその積極的な加担であるというだけである。積極的な加担とはリアルの寒さに裏打ちされ、その循環がどんどん自身の現実との乖離を進める。救いなきスパイラルだ。



もはや誰も現実の幸福に期待せず望まなくなるかもしれない。ネットで見られることによる自分の優越感の尺度が現実の幸福に取って代わるかもしれない。優越感が尺度であるうちは誰も他者を省みないだろう。ファッショはその分断を油断なく狙っている。ファッショは誰もが幸福を期待しないときに現れる。



ここまで考えて実はネットのインフラこそがファッショの前兆かもしれないと僕は思ってみる。何れにしろネットで仮想的に幸福であることが我々の安堵なら、これは価値腐乱の相当な病だ。ネットに関与することでネットの全体的価値に加担しているならここはオーウェル的世界だ。偉大な兄弟はツイッターだ。









どちらにしても僕の言葉が本質を救うことに叶ってるかどうか分らない。検証する暇もなく流されるのがTLだ。本質であっても消滅する。誰かが死にたいとツイートしてもTLで拾われない。そういった言葉があっさり流れるのもTLの特徴だ。TLは人が増えるほど体面を気にさせる。TLは全体性なのだ。



mixiの日記と比べてみればよく分かる筈だ。ここは個人の響きよりも全体の流れが優先される。だから自殺志願者の声すら瞬時に押し流す。フォローフォロワーが増えるほど全体的体面を個人に強いるのだ。空気を読めなければ流されるのだ。これはもう立派なファシズムではないか。僕もまた加担している。



僕が言ってるのは喩えでも仮定でもなんでもない。実際に助けを言い含んだと見られるツイートを見た。その時にまさしく僕が全体的な流れに逆らえずそれをTL上で無視した張本人なのだ。その時に全体性をまざまざと体感したから苦い思いでこれを書いているのだ。だからこそ僕はTLの本質を無視しない。



僕が体験した苦い思いはこれは隠しようのないリアルで、体感した苦痛の感覚は僕の加担的事実を証明した。だが本質を救うということは自分に露呈されたものをありのままに書くしかない。爛れたロジックも引用の虚飾もない。そして敢えてTLの場を壊す。空気を潰す。疎まれても構わない。孤高に立とう。



スノッブから始まったものだが、スノッブが体面を繕う自己欺瞞であるからこそ人を救わないしネットと親和性が高いのだ。ネット的にラジカルなツールはしょせん人の弱さを暴くだけだ。だから逆説的に僕はこれを学ぶ。そこから人を鎖から解き放つものを探す。気の利いたウィットの場なぞクソ食らえだ。



それでも何事もなかったかのようにTL は続いていく。そうやって孤独に上塗りされた改竄された自分を人々は放射する。洗練されたやり取りの流れを、尋問される自分の鏡像が死体のようにTLを流れてゆく。ベルトコンベアに負けないアレゴリーな比喩がTLだ。でも比喩で終われない。確実にそこにある。









140字とは絶妙な数字だ。断片的な言葉しか書けない。書き連ねて主張したり系統立てた思考を育むには連続ツイートしかない。だがそうすればTLの流れが加速する。他人の言葉を追いやる。自分の言葉を追いやる。つまり誰かに迷惑を及ぼす。個が埋没して全体の調和を乱す。つまり全体を優位に置く。



ツイッターロンガーは読まれないに等しい。ブログを持たなければTLは無害な言葉しか残らない。言うな、考えさせるな、と警告しているように。その代わり怪しげな短文が怪しげなところには誘導できる。剥き出しの何かが此処にある。それは我々が生きている世界の限りない危険を構造的に示している。



危うさが存在することは危ういことではない。しかし誰も危うさを認識できず無関心であることや、危うさに反応することすら自ら放棄することが本当に危ういのだ。痛まない内面で痛んだ他者を見下ろして自嘲や自分を卑下することは我々をとことん酔わせてくれるだろう。見られることへのスマートさに。



自分の荒みをスタイルにすることで格好はつくだろう。だが誰にも理解されない不幸を招くことを誓約しているようなものだ。言葉はどこまでも爛れた退廃を美味のロジックに変換してくれるだろう。だが一人で死ぬ時に本当にそれで耐えられるだろうか。乖離した自分は訂正しようがなく、嘘を吐き続ける。



そういう時代に生きている。僕はこの風景を見ている。この風景を通過する。新しいところへ絶えず進み続ける。そして覚悟と決意を固めていく。愚直だと笑って欲しい。そういう風にしか生きられないから。











music : Cliff Martinez - Don't Blow It


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