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headbaner

Feb 19, 2010

動画をアップロードしました。#3

最近ビル・エヴァンスにすっかりハマってJazzに傾倒しているHemakovichです。
また動画をアップロードしたのでお知らせします。
しかし今回も新作ではないのですが。




出来ればYouTubeの画面でご鑑賞下さい。こちらをクリック
YouTubeでご鑑賞される場合はスクリーン下部に「480p」とか「360p」というボタンがありますが、PCで通常のブロードバンド(ADSLなど)でご鑑賞される場合は「480p」にして置いてください。


今回の動画はYouTubeのアップロード上限ギリギリの10分弱のものです。
既に僕がUPしている動画に "Perspective of life" "Perspective of life - Catastrophes ver" というのがあります。
これは元々、YouTubeでのMusic Videoコンテストに出品したものなんですが、前者が実際に応募に出したバージョン、後者が応募に出さなかったバージョンなんですね。
どちらもそれなりに気に入っていて、自分のプライベート用のDVDに収録したんだけど、DVDに収録するために二つを繋ぎ合わせた形のビデオを今回そのままUPしたんですね。

ここ二、三日、過去の動画をUPしていてYouTubeに高画質の動画をUPするコツみたいなのが分かってきたんですね。
だから現段階で僕のPV風作品では一番気に入っている“Perspective of life”を改めてより高画質にUPしてみたくなったのです。
でもただ同じものをUPするのは面白くないし、二つの作品を別々にUPするのは二度手間だし、だったらDVDに収録したものを上げればいいんじゃないかと思ったんですね。
二つの作品を繋いでDVDにしたときに、作品のプロローグ・エピローグ的なシーンをちょっとだけ付け加えてみました。今回UPしたものにそれを見ることが出来ます。


ではどうやったら画質を向上させることが出来るのか。
ちょっと備忘録的な専門的な話になるので、興味がなかったら読み飛ばしてください。

まず撮影した段階の解像度をいじらない。僕の場合DVカメラでほとんどの動画を撮影したから720x480になるんだけど、一時期「YouTubeに最適な動画の解像度は640x480だ」という情報があったので、解像度を変換してUPしてたんですね。だからエフェクトの多い複雑なカットとか静止画にノイズが押し込められてたんですね。これを今回は改めて720x480にしました。
それと動画にはビットレートという動画を再生するときの動きのデータみたいなのがあるんですが、僕はこの数値が「大きいほど高画質になる」と思い込んでいたんですね。実際は動画はそれぞれビットレートの値が最初から決まっているんですね。これを無理に変更すると劣化する。だから「元の動画の持つビットレートの値を変更しない」ということなんですね。
あと、フォーマットもいじらないということ。フォーマットというのは圧縮技術のことなんですが、撮影した動画をパソコンで切り貼り編集して一つの作品に繋ぎ合せる時にどういうフォーマットを使うかということなんですね。
僕は今まで圧縮を全くかけずに動画を生成していました。「圧縮をしないことが高画質の条件」と思い込んでたんですね。
でも実際にはたとえばDVテープのカメラで撮影した動画はパソコンに取り込まれたときにDVフォーマットという圧縮をかけられている。それを切り貼りして最終的に一つの動画を生成するときも同じ圧縮をかけた方がどうやら画質がいいみたいなんですね。だからDVフォーマットで撮影された動画をパソコンで編集したあとは同じようにDVフォーマットで圧縮するべきなんですね。

以上のことを守った上で、拡張子がMPG4、コーデックがh264の動画に変換してファイルサイズを小さくして動きを滑らかにする。そうするとどうやらYouTubeに投稿した際の画質の劣化が抑えられるみたいなのです。

以上のことはYouTubeのヘルプ動画のアップロードを最適化するにも書かれています。


では実際にUPしてみてどうだったかというと、確かに画質は向上しました。
ただ、作者じゃないと分かりづらいかもしれない。
まず、画面の横幅が増えたので作品が広く感じられるようになった。
それとノイズが画期的に減りました。
動きが早い場面なんかは前と同じようにしか感じられないんだけど、静止画とかエフェクトを何重にも重ねたカットはノイズの軽減がはっきり分かります。
例えば、音楽が始まるところの最初の青い光線が走るところとか。あれは見比べて貰えば誰でもノイズが減ったのがお分かり頂けると思う。
それとキウイとかカエルとか犬の静止画のカット。それに小さい子供の表情なんかも前よりクリアーになってる。

こういう僅かな画質の向上でもそれがやりたくてアップロードをやり直すのは作者的自己満足に過ぎないと思うんですけどね。

でもまあそういうものなんですけどね。



この作品のきっかけとなったMusic Videoコンテストをやってたとき、僕は1980年代のアメリカのTV映画「ザ・デイ・アフター」を何回も見てたんですよね。
それでこの動画で使ってる曲がCD発売されたのは8月6日。歌詞はすごく多義的なものだけど、曲名がなんとなく「核のヒロシマ」っぽかったんですね。

それでなんとなく、核だとかヒロシマだとか世界の終末だとか、そういうニュアンスが作品に影響されたわけなんですね、モロなくらいに。




変らない日常の連続が唐突に終わるというか、終わった直後に人々のそれまでの営みが物悲しくも鮮やかな色彩を帯びるというか。だから人の動きや人々の目に映るもの全ての感触が「唐突な終わり」を空想する延長上で、かけがえなく愛しげに目に飛び込んでくるというか。

唐突な終わりっていう考え方はいまでも世界はそのリスクを背負っているにも拘らず、過去のものとして忘却しているようなんですけど、1980年代の冷戦時代、かつてなく最高潮に全面核戦争の危機がリアルタイムに進んでいたときは平凡な現実として人々は戦慄していたと思うんですよ。少なくとも僕はそうだった。
小学校低学年で世界情勢の事なんか何もかも無知だったけど、冷戦を子供なりに皮膚から体感していたあの感触はよく覚えている。核戦争の危機を描いたTV番組もたくさんあったし、街角に張ってあった「ザ・デイ・アフター」の映画ポスターの奇怪なキノコ雲のイメージは、全面戦争の同時的な不安を子供の心にも十分に叩きつけたような、そういう時代でした。

このPVを作った頃というのは僕は個人的に過去の「唐突な終わり」の感覚を懐かしく思い出していたわけだけど、でも終わりの危機的状況は何も変ったわけではない。世界情勢は変ってもむしろ危機的なテクノロジーは80年代よりも飛躍的に進化しているわけですから。

核というのは非常に分かりやすいメタファーだけど、80年代と比べれば人々は冷戦が終わっただけで恐怖が薄まっている。敵地先制攻撃論なんていう考え方が現れたりする。冷戦時代の相互確証破壊の思考を知ってる人間にはとんでもない発想なわけだけれども。

だから核をメタファーにして「唐突な終わり」と「人々の平凡な営みへの非凡な破滅」みたいなことを表現するのは愚直すぎるような気もします。飽きられてるというか。
映画でもそうでしょう。『アルマゲドン』とか『ディープ・インパクト』だとか『デイ・アフター・トゥモロー』だとか、散々に黙示録的な光景を娯楽スペクタルにしてきたわけでしょう。

それでも僕が原爆ドームだとか核爆発だとかそういうイメージを入れたのは僕の自己満足に過ぎないと思うけれどもね。



80年代の冷戦時代の核戦争映画というのは、どれもこれも人々が「愚弄な自分たち」を当事者として描いていたと思う。
自業自得の怠惰の果てに至極当然の結果としてカタストロフィがある、どれもこれも自分たちが愚弄で自分たちが招いた当たり前にありふれた終わり、そういう当事者としての苦しさを嘔吐するかのように『ザ・デイ・アフター』みたいな映画があったと思う。
それが20年ぐらい経って、タイトルが似ていても『デイ・アフター・トゥモロー』みたいな映画にあるのは全部虚構の世界の他者の出来事のように描かれたカタストロフィへの享楽的嗜好ですよ。破滅スペクタルを他人事のように眺める視線ですよ。ローマの街を放火して眺めるネロのように、愚弄どころか暗愚ですね。僕はああいう映画を作る人間の偽倫理的な詭弁を絶対に信用しない。




今となっては愚弄を自覚できた時代の恐怖が懐かしいのです。
なぜなら僕らは愚弄だけれども愚弄に対して善良であった。
だから世界の終わりへの感覚に安易なハッピーエンドなど僕らは許さなかった。


そういう倫理性が懐かしいのです。

僕が本当に言いたかったことはそれなのかもしれません。

だからこそ、平凡なメタファーでしか世界を思考できなかった。


人々の何気なく愛しげな営みを映す以上は、「唐突かもしれない終わり」の予感を外すことはできないのです。

だからこそ、僕らの時代は並存する世界の大きな暗さや悲しみを他者のように思考することは出来ないのです。

集団の無意識に浸る破局的な不幸や不安への予感に支えられての、僕らの時代の僕たちの今の幸福だから。




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